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映画特集
ボーイズ・イン・ザ・シネマ

湯本香樹実さんの著作で、映画に関するエッセイ「ボーイズ・イン・ザ・シネマ」(キネマ旬報社 '95年初版)を読んで、とても感銘を受けました。これは主に湯本さんの文章に、僕の感想などをちょっと付け加えてみようという企画です。


あの不思議な一時期から、いったんはもっと閉じこもってしまった私に他人への想像力を与えてくれたのは、何人かの辛抱強い友だちと、本と、やはり映画だ。殊に映画のなかで出会う女の子たちは、私に「他人から見た自分」を想像することを教えてくれたのはもちろん、自分で理解し難かったり、許せなかったり、嫌いだった「過去の自分」と手をつなぐきっかけを今でも作ってくれたりするので、姉妹のように思うことも多い。
ボーイズ・イン・ザ・シネマ」/湯本香樹実



エッセイの中から、以下の作品を取り上げて紹介しています。
ギルバート・グレイブ
プロヴァンス物語 マルセルの夏
エル・スール
シベールの日曜日
スタンド・バイ・ミー
日曜日のピュ
ピアノ・レッスン
秘密の花園
愛すれど心さびしく

ギルバート・グレイブ/What's Eating Gilbert Grape(1993・米)
(監)ラッセ・ハルストレム、(演)ジョニー・デップ、ジュリエット・ルイス、レオナルド・ディカプリオ

 今も眠れない夜などに、ふいに昔の家のきしむ音を聞いたりする。夜、勉強したり、時には苦しい長い手紙を書いたりしていたあの頃、話しかけるように家はよくきしんだ。その音が甦り、耳の奥から聞こえてきて、さわがしい心を鎮めてくれる。そうして、「まあ明日もがんばろうじゃないか」というような気持ちになって、眠る。
 たぶんギルバートも、彼の家のことを思いながら、時には夢に見たりしながら、旅を続けて行くのだろう。今はもうないその家は、二度と失われることのない場所として、旅人を慰め、より遠くへ行くための勇気を与えてくれるはずだ。
「ボーイズ・イン・ザ・シネマ」/湯本香樹実


 父が亡くなってから心が萎えてしまった母に代わって、田舎町の食料品店で働きながら家族を支えてきたギルバート。若者であれば誰もが抱く、束縛から自由になりたいという欲求を、彼も抱くのは自然なことだけど、家族思いの優しい彼は、そんな感情を内に閉じこめて生きてきた。
 そんな彼を優しく包み込み、彼の思いを受けとめてくれたベッキーは天使のよう。
 
"私は外見の美しさなんかどうでもいいの。長続きしないもの.... 何をするかが大切なのよ"

"夕焼けってすてきね。空って大好き、広くて果てしない"


思わぬ形で、家との絆を断ち、自由になったギルバートの、そしてアーニーの未来に幸あれ。

アーニーは聞く 「僕らはどこへ?」
僕は言った 「どこへでも」


日常に疲れたとき、無性に会いたくなります。優しいギルバートのまなざしに、邪気のないアーニーに、ベッキーの微笑みに。


プロヴァンス物語 マルセルの夏/La Gloire De Mon Pere(My Father's Glory)(1990・仏)
(監)イヴ・ロベール (演)ナタリー・ルーセル、フィリップ・コーベール、ディディエ・パン、テレーズ・リオタール

 さて、今年の夏はどこへ行こうか。『マルセルの夏』を見るたびに、子どもの頃の夏休みの家族旅行をなつかしく思い出す。私もマルセルと同じように、旅先を「生涯の地」と思い込むことができたし、何もかも忘れて、帰ることも忘れて、両手をいっぱいにひろげていた。今ではどこに行っても、「やはり自分の場所は、仕事と住処のあるところだ」と納得して帰ってくることが多いのだけれど、それでもでかけていくのは、いつかもう一度、あんなに素晴らしい夏休みを過ごしたいと思っているからなのだろう。
「ボーイズ・イン・ザ・シネマ」/湯本香樹実


 フランスの国民的作家マルセル・パニョルが少年時代を回想して書いた「少年時代の思い出」を映画化した作品で、第1部「マルセルの夏」、第2部「マルセルのお城」からなり、威厳のある父と優しく美しい母に見守られながら成長していくマルセル少年の姿が南仏の美しい自然を背景に描かれています。
 マルセル一家は、身体が弱い母のため、ジュール叔父と共同でプロヴァンスの丘陵に別荘を借り、夏休みに皆で出かけることになります。

母が15歳の少女のように見えた。
生涯で最も美しい日々が始った。


 この夏、すばらしい平原の景観の中で、マルセルは自然児リリとの友情を育み、"全能の"父の人間的な側面を知ります。秋になり、プロヴァンスでの休暇が終っても、この夏の記憶は少年の日の栄光として、マルセルの心のなかにとどまるに違いないと思います。

 我が家でも毎年の夏休みに1,2泊の家族旅行にでかけます。上の息子がほんの小さい時からだから、もう15年以上になるけど、いつも同じような方面なので、半年も経つと、このあいだの夏はどこに行ったんだっけ、ということになりますが、みんなで行くのも多分今年が最後になるんだろう。でも間違いなく我が家にもマルセル一家のような輝かしい夏の日がありました。これは僕にとっては確かなことだけど、願わくば息子達にとっても、そうであって欲しいものです。


エル・スール/El Sur(1983 スペイン・仏)
(監)ヴィクトル・エリセ (演)オメロ・アントヌッティ、ソンソレス・アラングーレン、イシアル・ボリャン
(挿入曲)弦楽四重奏曲/ラヴェル、弦楽五重奏曲/シューベルト、スペイン舞曲/グラナドス など

 初めて見たときから、「春になる瞬間のための長い秋冬の物語」として私の心に刻みつけられた映画だ。たぶんスペイン北部の風景と、主人公エストレリャの持つ雰囲気のせいだろう。

 父と娘は、「家族」とか「親子」ということではなく、孤独な魂を持つ者どうしとして、別々に生きる者どうしとして、深い愛情で結ばれている。
 今年ももちろん、『エル・スール』を見て、私の春が始まった。春の日々の不安の記憶を、いとおしく甦らせてくれる映画である。
「ボーイズ・イン・ザ・シネマ」/湯本香樹実


 冒頭の夜明けのシーンは、1957年秋の父との別れの朝。成長した少女エストレリャは小さい頃、父と過ごした日々を回想します。

 彼女は両親と町外れの一軒屋に暮らしていた。父アグスティンは医者だったが、頼まれると霊力で地下水脈を探し当てたりした。小さいエストレリャには父が奇跡のようなことができても、父だから当たり前のことと思えた。父と一緒にいられれば、それだけで満足だった彼女だが、やがて父が故郷の南を離れ北にやって来たわけや、父の誰にも言えない秘密を知るようになる。

 幼い頃には、父に対して、何でも知っている全能者というイメージを抱いていたエストレリャでしたが、成長するにつれ、やがて孤独で淋しい人間という父のありのままの姿が見えるようになります。そんな父とエストレリャとの心のふれあいをエリセは静謐な映像で描写しています。とくに印象に残っているシーンとしては、まだ小さい彼女が父を手伝って水脈を探るところとか、映画館を出た父がカフェで手紙を書いているとき、カフェのウィンドウをエストレリャがたたいて知らせて顔を見合わせるときに見せる表情や、学校の昼休みに父に誘われホテルで二人で昼食をとりながらかわす最後の会話の様子など。
 スペインというと真っ青な空と太陽のイメージを抱いていたけど、この映画の舞台となっている北部では雪も降り、ぬけるような青空も見られません。病後の静養のため、エストレリャが初めて行くことになる祖母の住む南(エル・スール)で、彼女は心の回復とともに、父が永遠に捨てた南との和解を父に代わって果たすに違いないと思います。


シベールの日曜日/Cybele ou les Diamanches de Ville D'aray (1962 仏)
(監)セルジュ・ブールギニョン (演)パトリシア・ゴッジ、ハーディ・クリューガー、ニコル・クールセル
(挿入曲)アダージョ/アルビノーニ など

 大人が傷つき、大人の社会からはじきだされた時、彼を見つめるのは、子どもである。残酷な眼差し。愛の眼差し。いずれにせよ、子どもは傷ついたものに敏感だ。

 子ども時代の自分が、どこかで今も確かに生きている、と感じることができる人は、しあわせだ。シベールは、そんな大人になる以前に、子どもとしての自分を失ってしまった。彼女が名前をなくしてしまったと言うラストほど、哀しいラストシーンを、私は知らない。
「ボーイズ・イン・ザ・シネマ」/湯本香樹実



 戦争中、操縦していた戦闘機が撃墜され記憶を喪失してしまったピエールと、親に見捨てられ修道院に預けられた12歳の少女シベールの純愛を美しいモノクロ撮影で描いた作品です。日曜日ごとにシベールに会うピエールは、次第に過去の自分を思い出すことにこだわらなくなっていきます。このままふたりで生きていければ、未来だけを見すえて生きていけるのではないか....

「君の本名が知りたい」
「あの屋根の上の風見鶏をとってくれたらね」


 ふたりだけのクリスマス・イブにピエールからのプレゼントは大きなクリスマスツリーと風見鶏、そしてシベールからのプレゼントは彼女のほんとうの名前でした。

「シベール。それが私の名、ほんとうの私なの。それは水と土の女神の名前なの」
 
 ピエールとシベールが寄り添って生きることのできる世界は、池の水面に映るふたりだけの秘密の幻影の家にしかなかったのが切ない。森の木にナイフを刺し、幹に耳を押し当てて魂の声を聴くふたりのイメージがずっと心に残っています。
 

スタンド・バイ・ミー/Stand by Me(1986 米)
(監)ロブ・ライナー (演)ウィル・ウィートン、リバー・フェニックス、コリー・フェルドマン (原作)スティーヴン・キング
(挿入曲)「スタンド・バイ・ミー」他

 少年(少女)時代の記憶というものは、関わり方次第では、人の一生を狂わすものになりかねない。しかし同時に、やはり記憶によって人は養われているのだ。それが死体であろうと、樫の木だろうと。四人の夏があんなにも輝かしかったのは、そんな記憶の海を「泳ぎきる」可能性があったからのような気がしてならないのだが、さて、私はどうだろうか。今も手足を無闇にばたつかせ、水しぶきばかり派手にあげているような気がしないでもない。
「ボーイズ・イン・ザ・シネマ」/湯本香樹実



 作家になったゴーディ(作者のキング自身を連想させます)は、新聞で古い友の死を知り、少年時代の忘れる事のできない夏の出来事を回想します。

初めて死んだ人間を見たのは12才の時だった。それは1959年の暑い夏。歳月だけを思えば遠い昔のことだ。

 オレゴンの小さな田舎町で12歳の少年達4人が、列車にはねられて死んだ少年の死体が森の奥にあることを知り、探しにでかけます。メンバーの4人は、ひょろっとして、ひ弱そうなゴーディ。彼はこの頃から物語を作り友達に披露していた。年が離れたゴーディの兄は4ヶ月前に交通事故で死に、兄を溺愛していた両親はその痛手から立ち直れずにいた。そして、ゴーディの最も親しい友だちで、アル中の父と不良の兄をもつリーダー格のクリス、すぐキレるテディ、臆病でとろいバーン。
 途中、犬に追われたり、鉄橋を渡るとき列車に轢かれそうになったり、ヒルに吸い付かれたり、野宿でコヨーテの吠え声に怯えたりしながら、ようやくのことで目的地にたどり着いた彼らが出会ったのは少年の死体と、やはり死体を探しに車でやって来た札付きの不良たちだった。

 12歳の頃、内面ではいろいろなものが整理できない状態でもやもやとしていて、自分の気分の不安定さにすごく敏感になっていて、そうした混沌さが外にあらわにならないように、殻のなかに自分を閉じ込めようとしていた。だから、周囲の人達の思いなんかに気を配る余裕がなかった。

 ゴーディたちも自分自身を扱いかねてうんざりしていて、もう一方ではそれぞれ家庭の問題をも抱えていて、だから「死体を探しに行こう」というバーンの提案は、日常のやりきれなさからの逃避(一時的であるにせよ)のための口実として、皆に間髪をおかずに受け入れられたのだろう。クリスがゴーディに投げかける友情のまなざしが何とも切ない。
 結局、この冒険は彼らにとって、子どもから大人への通過儀礼(イニシエーション)となったと言えます。来た道を引き返した彼らは、明け方町に戻ります。

たった2日の旅だったが、町が小さく違って見えた。

あの12才の時のような友だちはもうできない。もう2度と......

 

日曜日のピュ/Sunday's Children(1993 スウェーデン)
(監)ダニエル・ベルイマン (脚)イングマール・ベルイマン (演)トミー・ベルイグレーン、レナ・エンドレ、ヘンリック・リンロース
(挿入曲)二つのヴァイオリンの為の協奏曲第2楽章/ J.S.Bach

 イングマール・ベルイマン脚本による『日曜日のピュ』を見ていたら、「日曜日生まれの子は、幻想する能力があり、亡霊を見ることのできる幸運な子」だということである。これは北欧でのみ、よく言われていることなのかどうか私は知らないが、亡霊を見ることができるということと、幸運であるということが一緒になっているあたりが、なんだか北欧らしくて、いいなあと思う。
「ボーイズ・イン・ザ・シネマ」/湯本香樹実

 
 映画を作ることは、それは作家の最も奥深い底にまで下降することである。つまり、子ども時代の世界にまで。それは映画作家の内部に最も密接した片隅なのである。
/イングマール・ベルイマン


 イングマールの小さい頃(7、8歳のピュ少年)の回想場面と、50歳になった彼と老いて死が近い父親との対話の場面とを交互に提示しながら、イングマールと牧師だった父親との葛藤を描いた映画です。
 牧師でありながら、人を許さず厳しすぎて家族には怖がられていた父に対し、ピュも敬遠気味のようで、父から、離れた町への出張礼拝に一緒に行かないかと誘われても言葉を濁していたけれど、深夜の父と母とのいさかいを目撃し、父の孤独に触れ、幼い心を痛めたピュは、父に付いて一緒に行く事にします。
 礼拝の帰り、池で泳ぎ、雨の中を自転車で走る二人、ともに日曜日生まれの父と子は、あんなにも幸福な時間を共有したはずなのに....

「寒くないか?」
「あったかいよ」


 イングマールと父との間には、このあとさまざまな軋轢があったのだと推測されますが、ラストに美しいシーンが置かれたこの脚本を書いた時点においては、イングマールはついに父を受容する心境に至ったのだと思います。
 背景として描かれているスウェーデンの美しい自然も見どころの映画です。なお、監督のダニエル・ベルイマンは、イングマールの息子です。彼は偉大な父に対してどんな思いを抱いているんだろう。


ピアノ・レッスン/The Piano(1993 オーストラリア他)
(監)ジェーン・カンピオン (音)マイケル・ナイマン (演)ホリー・ハンター、ハーヴェイ・カイテル、アンナ・パキン

 自分が自分らしくあることと、愛に生きること。その間で引き裂かれてしまいそうな思いに覚えのある女性なら、エイダが美しい銀の義指をつけて再生し、その聖痕が鍵盤に触れてコツコツとささやかな音をたてる時、ひとつの答えを見いだすと思う。シンプルで、きびしくて、永遠の解答を。「ほんとうの愛なら、大丈夫だよ」と。
「ボーイズ・イン・ザ・シネマ」/湯本香樹実

 舞台は19世紀の中ごろのニュージーランドで、口のきけないエイダは、娘と一緒にスコットランドからはるばる嫁いで来ます。荷物は、彼女の分身とも言うべきピアノだけ。しかし、見合い結婚である夫との関係は、うまくいかず、夫は、近くに住んでいる男ベインズにピアノを売ってしまいます。ベインズは、エイダにピアノレッスンを条件にピアノを返すという提案をし、彼の小屋でレッスンが始まる。口がきけないエイダにとって自己表現の手段としてピアノは、何にも替えがたいものであり、ベインズの理不尽な要求を呑まざるを得ませんが、次第に彼に惹かれていきます。
 ほとんど未開の地だったニュージーランドを背景に、近代人である夫と野人のごときベインズと情念の女性エイダとピアノの四角関係が興味深い映画です。ホリー・ハンターは、この映画の演技によりアカデミー主演女優賞を、また娘役のアンナ・パキンが助演女優賞を受賞しています。また、映画の中でのピアノ演奏は彼女自身によるもの。


秘密の花園/The Secret Garden(1993 米)
(監)アニエシュカ・ホランド (演)ケイト・メイバリー、ヘイドン・プラウス、マギー・スミス

 私は、子どもの頃に好きだった場所を今もよく夢に見るし、その風景が自分の心をかたち作っているのだという実感を持っている。この映画の中に現れる、庭や荒地の姿は、日本とはまるでちがう風土であるはずなのだけれど、なぜか私の記憶の風景と触れ合うものがあった。
「ボーイズ・イン・ザ・シネマ」/湯本香樹実


 製作総指揮をコッポラがとったそうですが、映像がとても見事な映画です。広壮な叔父の屋敷、だけど主人であるメアリーの叔父の心を反映しているかのように荒れ果てた部屋、ヨークシャーの広大な自然、そして秘密の花園の季節の変化など、原作のイメージを損なうことなく描写されていて、映像だけでも一見の価値があると思います。屋敷に来た当初は、不器量で、プライドが高く、意地っ張りのメアリーは、映画では性格、外見ともに小説から受ける印象よりは、ずいぶんと可愛くなっているようでした。若いメイドのマーサ、メイド長のメドロック夫人(マギー・スミス)、コリン(ヘイドン・プラウス)などの脇役陣もとてもすばらしかった。それに優しい音楽もよかった。悪役の登場しない、万人におすすめの癒しの映画です。

My uncle learned to laugh and I learned to cry. The secret garden always opens now.
叔父様は笑うことを知り、わたしは泣くことを知った。今では秘密の花園はいつも開いている。


 原作の小説は、「児童文学のページ」で紹介しています。


愛すれど心さびしく/The Heart Is A Lonely Hunter(1968 米)
(監)ロバート・エリス・ミラー (演)アラン・アーキン、ソンドラ・ロック

 暑くなってくると読みたくなるのが、マッカラーズだ。アメリカ南部の窒息しそうな暑さと、窒息しそうな社会の中の、孤独な魂・・・・・暑さが激しければ激しいほど、光が強ければ強いほど、心の影は色濃くなっていく。
「ボーイズ・イン・ザ・シネマ」/湯本香樹実


 基本的なシチュエーションは原作の通りですが、ミックが原作では13歳の少女であったのに対し、映画では16、7歳の高校生に設定されているところが異なり、映画では少女から脱皮しつつあるミックとパーティーで知り合ったボーイフレンドとの原作にはないエピソードが追加されています。そしてミックのシンガーに対する感情も原作における同じ孤独を抱えた者同士の共感にとどまらず、恋愛感情の要素も帯びているようです。
 ミック役として2000人の候補者から選ばれ、スクリーン・デビューを果たしたソンドラ・ロックですが、やせっぽちで、ひょろっとして中性的な原作のミックのイメージに近く、とてもいいです。彼女はこの映画での演技により '68年度アカデミー賞の助演女優賞にノミネートされています。
 聾唖者であるシンガーが一人で町を歩いたり、部屋にいる場面で画面が無音となる演出が、シンガーにとっては世界が沈黙であるという事実と、彼が抱える癒しがたい孤独感の表出という2つの面を効果的に示していて秀逸でした。抑制した演技でシンガーの内面の孤独を表現したアラン・アーキンも、アカデミー賞の主演男優賞にノミネートされています。

原作の小説「心は孤独な狩人」は、「カーソン・マッカラーズのページ」で紹介しています。

(挿入曲)
○主題曲
 哀愁を帯びた印象的な曲ですが、作曲者のデイブ・グルーシンは、70年代にフュージョン系コンポーザー、ピアニストして活躍したミュージシャンで、僕も彼の代表的なアルバム「マウンテン・ダンス」を持っていました。
○交響曲第41番ハ長調「ジュピター」K.551/モーツァルト
 家が困窮しているため、ミックはコンサートのチケットが買えず、演奏会場の外で中から漏れてくるこの曲の演奏に一心に耳を傾けていました。この様子を目撃したシンガーが、彼女のためにプレイヤーとレコ-ドを買って聴かせたことが、二人の心を近づけるきっかけとなりました。ミックがシンガーに感謝の気持を示そうと、身振りと言葉とで(シンガーは唇を読める)、彼になんとかこの曲の素晴らしさを伝えようとする場面が印象的でした。
 この41番の交響曲はモーツァルトにとって最後の交響曲であり、標題の示す通り剛毅で、構成力の見事さではモーツァルト作品の中でも随一の傑作です。
○ピアノソナタ ハ長調 K.545 /モーツァルト
 ミックの同級生が家でこの曲を練習しているのを、ミックが玄関先で聴いている場面。感動したミックが、外に出てきた友人に「今弾いていた曲は何?」と尋ねるシーンが挿入されています。ミックは次第に自分でもピアノを弾きたいという思いを強く抱くようになります。
 この曲はソナチネ・アルバムにも収録されていて、ピアノ初級者にも弾ける曲ですが、いかにもモーツァルトらしい愉悦感、透明感に溢れた名曲です。シンプルであるが故にプロの演奏家にはかえって弾きにくい曲かもしれません。


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