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1.ターン(1997) |
新潮文庫
「スキップ」に続く時と人3部作の2作目です。北村さんの本領であるミステリーではなく(ミステリー的な要素もあるけど)、SF/ファンタジーに分類される作品です。
主人公の森真希は29歳のまだ無名の銅版画家で、車の運転中事故に合って意識を失ってしまう。目覚めた世界は、意識を失う前と全く同じの見慣れた世界であるが、そこには真希以外の人間が存在していなかった(人間だけでなくあらゆる生物も)。しかもこの世界では1日たつと、時間が1日前に戻ってしまう(彼女はこの現象を『くるりん』と名づける)。真希は、この孤独の世界をさまようが、ある日彼女の家の電話が鳴り、あわてて受話器を取った真希の耳に男の声が聞こえた。その声は.....
といった展開ですが、半年にもおよぶこの不思議な孤独な世界に暮らす真希は、ある出来事のあと、どんな状況に置かれても、"今"の瞬間を大切にしなければという思いに至ります。少し長くなるけど、とても好きな箇所なので、その部分を引用してみます。
今、目の前を過ぎ行く一瞬一瞬がたまらなくいとしいものとなった。
「...こんなに大事なものを、わたしはどう扱って来たのだろう」 手をついて何かにあやまりたくなった。
わたしの前にあるのは、砂漠を行くような日々だと思っていた。緑はないと。
誰も見てくれず、誰も言葉をかけてくれないのなら、.....そして何よりも、どうせはかなく消えてしまうのなら、何も生み出すことは出来ないと思って来た。
そうだろうか。
わたしには何があるのだ。自己流だろうと、下手だろうと、版画だ。それなのにどうして、輝くプレートを削るのをやめてしまったのだろう。半年のうち一日でも、メゾチントに正面から向かいあったことがあったろうか。
農家のおじさんがこうなったら、いずれかの一日、畑で汗を流したのではないか。マラソンランナーだったら、一日ぐらいは根限りに走ってみたのではないか。花火師なら、見る者のない空に会心の花を咲かせたのではないか。本が好きなら一心に読み、花が好きなら見つめたろう。消えないものは、そこにしかない。
消えてしまうというなら、こうなる前でも、わたしのメゾチントが、5年残る、10年残る、という保証がどこにあったのか。ありはしない。それなのに、わたしはスクレーパーを握り、プレートに向かって来たはずだ。そのひと削りごとに喜びを感じ、印刷機をくぐった紙に、逆転された絵が浮かぶ度に、新鮮な驚きを感じたはずだ。
この地球さえ、いつかは形を失う。永遠であるというなら、一瞬さえ永遠だ。こんな当たり前のことを、わたしはどうして忘れていたのか。顔青ざめて、毎日が不毛な繰り返しだといっていたわたし。不毛なのは≪毎日≫ではなく≪わたし≫だった。そういう人間が、どうして生きている世界に戻れよう。
身内に湧き上がる力を感じた。
文庫版の解説を、こちらも僕がとても好きな作家の一人である川上弘美さんが書いていて、川上さんもこの作品が好きなんだなという事が伝わってくるうれしい文章でした。
北村薫さんの書く作品には、それぞれに人格があるように思えるのだ。ていねいで、周到で、かつおのおのの作品の特質をそなえた、さまざまな人格。
(中略)
そして、最良の物語には、とらえどころのない、しかし私たちにとってひどく切実な、「者」を越えた存在が、かならず感じられるのであるから。
「ターン」とは、そういう人格を持った、驚くべき物語である。(新潮文庫「ターン」解説/川上弘美)
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(映画)ターン(2001) |
(監)平山秀幸 (原作)北村薫 (演)牧瀬里穂、中村勘太郎、倍賞美津子
透明に刻む、時の流れの水の中を、君はターンする。 「ターン」/北村薫
原作のもっている香りなり、イメージなりをうまく、すくいとって映像化していて、とてもよかった。
主人公の真希がひとりきりの世界に取り残され、そこでの暮らしの描写が全体の中のかなりの部分を占めるので、映画化の成否は真希役の女優の演技に大きく左右されますが、その点で牧瀬さんは適役だったと思います。原作における真希は、そそっかしくて、ちょっと意地っ張りな面も弱さもあるけれど、姿勢正しく、まっすぐ前を向いて生きていこうという意志を持った凛(りん)とした女性として描かれていて、牧瀬さんの真希像はこうしたイメージに沿っていたと思います。真希は、"円紫さんと私"シリーズの"私"とともに、北村さんが女性に対して抱いている理想像(期待像と言うべきか)の具現化ではないかな。
映像的には、真昼間の無人の交差点に立つ真希を撮ったシーンが印象的でした。それから、映画の中で真希がメゾチントという技法の銅版画を制作する場面が興味深かったことと、原作にはなかった植物園の熱帯温室や高級レストランでの真希と泉の仮想デートのシーンが映像を生かしたアイディアとして感心しました。
君は、スケッチブックを開いて、八角時計をいくつも描いていた。最後の方は文字盤だけになる。
という二人称の文章で始まる原作では、小説構造に仕掛けがあって、これにより真希と泉の関わりが単なる偶然の作用ではなく、運命的なものとして捉(とら)えられることになるのですが、映像的な演出が難しいということだと思いますが、この仕掛けは映画では取り入れられていません。作品全体にかかわる重要な点なので、うまく映像化出来ていれば、もっと素晴らしい作品になったと思うのですが、逆に破綻する可能性も大きいのかもしれません。
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2.月の砂漠をさばさばと(1999) |
新潮文庫
日常は意識して守護されなければならない。例えばこういう物語で、幸福の在処(ありか)を再確認する。そういう時代に、私たちは生きている。(文庫版解説/梨木香歩)
9歳の女の子さきちゃんと、作家のお母さんの二人で暮す日常を描いた作品です。お母さんは、お話を作る人だけあって、さきちゃんにも毎晩布団に入ってからお話を聞かせてあげています。
さきちゃんは思います。ケーキ屋さんの子供は、おうちのケーキが食べられるのかな。お花屋さんの子供は、おうちのお花をかざれるのかな。
― それは、分らないけど、わたしはできたてのお話を聞けるよ。
お母さんのしてくれるお話には、近所の三毛猫やら薬屋の新井さんやら、さきちゃんが書道教室に通う途中の大きな家で飼っているドーベルマンなどが登場します。お母さんの好きな宮沢賢治の童話で、さそり座になったさそりの話もありました。
それから、いかにも北村さんが好みそうな聞きまちがいによるユーモラスなこと、さきちゃんの友達のしのぶちゃんやムナカタくんのことなど二人の周辺でのささやかだけど、心なごむエピソードが語られています。
本のタイトルは、音痴のお母さんが、さばを煮ているときに歌い出した即興の歌詞からとられています。
「月のー砂漠をさーばさばと さーばのみそ煮が ゆーきました」
これを聞いたさきちゃんが、広い広い砂漠をとことこ行くさばのみそ煮のイメージを頭に描いて、「かわいい!」と言いました。晩ご飯のとき、お母さんは何か考えているようでした。
「どうしたの」
「うん。あのね、さきが大きくなって、台所で、さばのみそ煮を作る時、今日のことを思い出すかな、って思ったの」
さきちゃんのお父さんが登場しないのは離婚したためのようですが、お母さんとさきちゃんは、そのことでより一層お互いを思いやる気持を必要としているようです。
普段の生活の中で出会う、ささやかだけど二度とは巡ってこないだろう、かけがえのない幸福を見過ごしてしまっていることや、そうした幸福を作りあげる努力を怠っていることは本当にもったいなあと気づかされました。
おーなり由子さんの暖かくて優しい水彩によるカラー挿絵と北村さんの文章は、互いに支え合っているように思いました。
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3.街の灯(2003)、玻璃の天(2007)、鷺と雪(2009):ベッキーさんシリーズ |
文春文庫
北村さんは、ベッキーさんシリーズ3部作の「玻璃の天」で直木賞にノミネートされ、「鷺と雪」で受賞しています。
この3部作は、昭和7年(1932年)から昭和11年(1936年)の帝都、東京を舞台背景として、父親が日本で指折りの商事会社の社長である上流家庭のお嬢様で学習院女子部に通う花村英子(えいこ)と、お抱えの女性運転手、別宮(べっく)みつ子(ベッキーさん)を主人公に、英子の周辺で起きる様々な事件が、英子の一人称で語られています。
3部作での英子は、現代でいうと中学生から高校を卒業する時分まで、そしてベッキーさんは20歳くらい、恐るべき博識の持ち主で、常に拳銃を携行し、武芸にも秀でているというミステリアスな女性です。"ベッキー"は、英子がベッキーさんと出会うときにちょうど読んでいたサッカレーの「虚栄の市」の主人公、ベッキーのイメージと重なったからでした。英子が描く初対面のベッキーさんの印象:
応接間に入ると、椅子に腰掛けていた人が立ち上がり、深々と礼をした。
若い女の人だった。髪は、ごくありふれた耳隠し。特別なものを着ているわけでも、派手やかな帯を締めているわけでもないのに、辺りが明るくなる感じだった。それは西欧風の、睫(まつげ)の長い、瞳の大きな眼のせいかも知れなかった。その眼を、さらに強く見せているのが、上がり気味に弧を描く眉だった。『虚栄の市』(「街の灯」収録より)
3部作を通じて、暗号や失踪事件などの謎解きの面白さもさることながら、綿密な考証に支えられた描写による当時の風俗や時代の雰囲気を垣間見ることの興味にも惹かれました。
たとえば、“試験地獄”という言葉は当時からあったとのことで、「鷺と雪」の『獅子と地下鉄』では、三越本店のシンボルのライオン像にまたがると試験に受かるという言い伝えに絡んだ展開となっています。今まで聞いたことがなかったけど、巻末の参考文献には、三越入口の壁には、「このライオン像は、”必勝祈願の像”として、誰にも見られずに背にまたがると念願がかなうと言い伝えられ、特に受験生の間に人気があります。」と書かれた説明板があるとのこと。機会があったらチェックしてみよう。「玻璃の天」の表題作では、民主思想を排撃する過激な論者として知られる人物の事故死偽装事件で、ベッキーさんの出自が明らかにされています。
犬養毅首相が、海軍の青年将校に暗殺された5.15事件が起きた昭和7年から始まった3部作のラストは、陸軍の青年将校たちがクーデター計画を実行した2.26事件の勃発で幕が閉じられます。英子は、事件に加わった陸軍の将校である若月と、「玻璃の天」の『幻の橋』で出会ったことから、この事件との接点を持つことになります。その後の英子やベッキーさんの行く末が、読者としてとても気になるところですが、北村さんはインタビューの中で、続編は書かないと明言しています。読者自らが想像をたくまくして彼女らの未来の物語(決して明るくはないだろうけど)を紡ぐために、「街の灯」の巻末に参考文献としても挙げられている野上弥生子著の長篇「迷路」を読むことをお奨めします。
○迷路(1948)/野上弥生子
岩波文庫
2.26事件の後、日本は第二次世界大戦への道を歩み始めますが、「迷路」は、昭和初期から第二次世界大戦に至る日本を、左翼運動に挫折して転向した良家の青年、菅野省三の彷徨を中心にして描いた長篇小説です。戦争へと向かう世相を背景に、主人公をめぐる人間関係や、当時の上流階級の暮らしぶりが圧倒的な描写力で描かれていて、なかでも奔放な多津江や、芯の強い万里子などの女性像が魅力的です。僕にとって、戦争という狂気が個人の人生を狂わせていく恐怖を、これほどまでに実感させた小説はありませんでした。決して読みやすい小説ではありませんが、後世に読み継がれていくべき作品だと確信します。
野上さんは、この作品や「秀吉と利休」などの代表作があり、1985年に99歳で亡くなるまで、最後の長篇「森」の執筆を続けていました。野上さんの夫君は能楽研究の権威として知られた野上豊一郎ですが、「鷺と雪」の『獅子と地下鉄』に同時代人として登場しています。
(参考リンク)
・5.15事件(Wikipedia)
・2.26事件(Wikipedia)
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■参考Webサイト |
○北村薫 関連出版
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■主要作品リスト |
○小説
- 空飛ぶ馬(1989) 円紫さんと私シリーズ@
- 夜の蝉(1990) 円紫さんと私シリーズA
- 秋の花(1991) 円紫さんと私シリーズB
- 覆面作家は二人いる(1991) 覆面作家シリーズ@
- 六の宮の姫君(1992年) 円紫さんと私シリーズC
- 冬のオペラ(1993)
- 水に眠る(1994) - 短編集
- スキップ(1995) 時と人三部作@
- 覆面作家の愛の歌(1995) 覆面作家シリーズA
- 覆面作家の夢の家(1997) 覆面作家シリーズB
- ターン(1997) 時と人三部作A
- 朝霧(1998年) 円紫さんと私シリーズD
- 月の砂漠をさばさばと(1999)
- 盤上の敵(1999)
- リセット(2001) 時と人三部作B
- 街の灯(2003) ベッキーさんシリーズ@
- 語り女たち(2004)
- ニッポン硬貨の謎(2005)
- 紙魚家崩壊−九つの謎(2006)
- ひとがた流し(2006)
- 玻璃の天(2007) ベッキーさんシリーズA
- 野球の国のアリス(2008)
- 鷺と雪(2009) ベッキーさんシリーズB
- 飲めば都 (2011) 連作短編集
○評論・エッセイ
- 謎物語 -あるいは物語の謎(1996)
- 謎のギャラリー(1998)
- ミステリは万華鏡(1999)
- 詩歌の待ち伏せ(2002)
- 続・詩歌の待ち伏せ(2005)
- ミステリ十二か月 (2004)
- 北村薫のミステリびっくり箱(2007)
- 北村薫の創作表現講義−あなたを読む、わたしを書く(2008)
- 自分だけの一冊 北村薫のアンソロジー教室(2010)
- いとま申して 『童話』の人びと(2011)
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