人は、哀しさを抱えて生まれてくるのだなと思う。手付かずの、純粋な哀しさだ。生まれてきたこと、生きることそのものにしみ込んでいる哀しさだ。しかしだからといって、人生全部がつらく苦しいものになるわけではない。人は哀しい思いをするからこそ、いたわり合ったり愛し合ったり、優しくなれたりするのだろう。人の心を掘り起こしていって、一番奥の髄にあるこの哀しさを表現することが、小説を書くということではないだろうか。
/エッセイ集「妖精が舞い下りる夜」
以下を紹介しています。クリックでリンクします。
■作品
・密やかな結晶(1994)
・凍りついた香り(1998)
・アンジェリーナ 佐野元春と10の短篇
・博士の愛した数式(2003)
(映画)博士の愛した数式(2006)
・猫を抱いて象と泳ぐ(2009)
・人質の朗読会(2011)
・最果てアーケード(2012)
【140文字紹介:Twitter投稿】
・小箱(2019)
・約束された移動(2019)
・あとは切手を、一枚貼るだけ(2019)堀江敏幸との共著
■関連Webサイト
■作品リスト
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1.密やかな結晶(1994) |
講談社文庫
あなたの心を両手にのせて眺めることができたらどんなだろうって、時々想像するんです。
物の実体と記憶がひとつずつ消えていく島に暮らす小説家の女性により語られる物語です。島の住民は、朝、起きたときに、いつもとは違う感覚があり、またひとつものの記憶が消えていることを感知します。消えていったのは、バラの花であり、鳥であり、カレンダーであったりします。バラの花が消えた時には、花びらがいっせいに落ち川を下って海に流れて行きました。
花びらはどれもまだ枯れてはいなかった。それどころか、冷たい水に濡れたせいで、バラの花だった時よりもつやつやと鮮やかに見えた。そして香りは、川面を漂う朝霧に溶けて、息苦しいくらいに立ち昇っていた。
見渡せる限り、全部が花びらだった。すくい上げたところだけ、一瞬水面がのぞいたけれど、すぐにまた花びらが押し寄せてきた。一枚一枚が催眠術にかかって、海に吸い寄せられているかのようだった。
住民の中には、失われたものの記憶を失わずにすむ人たちもいて(彼女の母がそうだった)、秘密警察は彼らを捜索し、連行して行きます。彼女の小説の編集者が、そんなひとりであることがわかり、彼女は彼をかくまうことになります。このメインのストーリーと並行して彼女が書きつつある小説が語られますが、こちらのほうは声を奪われたタイピストの物語です。
現実の物語にせよ挿話にせよ、ものとか記憶とかが失われていく世界が描かれていますが、人々は諦念をともなった悲しみを感じながらも表面上は穏やかに周囲の変化に対応しているようで、小川さんの小説に特有のひんやりとした感覚が印象的な作品です。
あなたの心が感じるものには、ぬくもりと安らぎとみずみずしさと音と香りがあふれているけれど、わたしの心はどんどん凍りついてゆくだけ。いつか粉々に砕けて、氷の粒になって、手の届かないところで溶けてしまうの。
この作品のイメージとして、気に入っているベルギー象徴派の画家クノップフの風景画が合うのでは(右の絵は「見捨てられた町」(1904)。画像クリックで拡大画像を参照できます)。
2020年、英国の権威ある文学賞であるブッカー賞の「ブッカー国際賞」最終候補6作に選出されました。
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2.凍りついた香り(1998) |
幻冬舎文庫
静けさが何より大事なんです。匂いをかぎ分けようとする時、人は誰でも自分が抱えている広大な過去の世界へさ迷い出て行きます。過去の世界に音はないんです。夢が無音なのと同じです。そのとき道標になるのはただ一つ、記憶だけです。
小川さんらしい、ひんやりとした感触の作品です。「密やかな結晶」や「余白の愛」などと同様、記憶が重要なテーマとなっています。
フリーライターの涼子と同棲していた弘之が自殺した。彼は調香師で、死の前日に涼子のために初めて作った香水"記憶の泉"を彼女にプレゼントしていた。
半透明のほっそりとしたガラス瓶は飾り気がなく、両肩の曲線は不揃いで、いくつか気泡がまじっていた。光にかざすと、香水の中でその泡が揺らめいているように見えた。素朴なボトルとは反対に、蓋には精巧な透かし模様が彫ってあった。孔雀の羽根の模様だった。
「孔雀は記憶を司る神の使いなんだ」
そう言いながら彼は蓋を取り、私の髪の毛に指を滑り込ませ、耳の裏側に一滴香水をつけた。
その香水は奥深い森で、シダの葉に宿った露の匂い、雨上がりの夕暮れに吹く風の匂い、あるいはジャスミンのつぼみが、眠りから覚める一瞬の匂いだった。弘之の自殺の理由に全く思い至らない涼子は、霊安室で初めて会った彼の弟、彰と二人で、弘之の死の手がかりを探し求めた。
彰から聞かされた弘之の過去は、彼が涼子に話していたこととはまったく違っていて、涼子にとって初めて知ることばかりだった。
数学の天才だった弘之、さまざまなコンテストで優勝し、実家には数え切れないほどのトロフィーが飾られていた。フィギュア・スケートが得意だった弘之、彼のスピンは美しかった。彼が書く数式のように。調香室の分類された瓶のように。
涼子は、弘之が16歳のとき、チェコのプラハで開催されたヨーロッパの数学コンテストに日本代表メンバーの一人として招待されたが、途中で棄権して帰国していたことを知った。弘之の過去を追い求めて涼子はプラハへ行き、修道院の裏庭にある温室で"記憶の泉"と同じ香りに出合った。
この小説は、恋人の突然の死に関わるいくつかの謎の提示と、その探求というミステリーとしての外観を備えていますが、たとえば村上春樹の作品がそうであるのと同様の意味で、通常のミステリーの範疇には入らない作品です。でも、ここでは敢えて心理サスペンスとして、謎を推理してみました。
(謎 その1)なぜ弘之は、涼子に対して過去を偽っていたのか;
あらゆる物事に数学的秩序と同様の完璧さを求めていた弘之は、16歳の時のプラハでの出来事を境に、それ以前の過去の記憶を消し去り、新たな人格として再出発したかったのではないか。それほどまでにその出来事は、彼の心に癒し難い傷を残したのではないか。
(謎 その2)なぜ弘之は突然の死を選んだのか;
彼の過去の記憶につながる匂いを涼子のために調香した香水に再現したこと、それは彼にとって自ら閉ざした過去に向き合うことであり、そしてそれは涼子と新しい未来を築く為に必要な賭けだったのかもしれません。そして過去の記憶の扉が開かれたとき、彼の精神は、まだそれに耐えるほどに強くなかったのではないか。倒れてしまわないためには、彼は新たな人格で永遠にスピンを続けるしかなかったのではないか。
プラハで弘之は自分の記憶をあるものに託していました。そして、そのものを通して涼子は16歳の弘之と出会うことができました。しかし、過去を変えることはできませんでした。
「すべてはあらかじめ、決められているんです。あなたが何かを為したとしても、為さなかったとしても、その決定を覆すことはできません」
「決定?」
「そうです」
「じゃあ一体、私に何ができるんでしょう」
「記憶するだけです。あなたを形作っているものは、記憶なのです」
(関連音楽)
朝のひんやりした空気がまだ残っているせいか、ジェニャックは革ジャンの衿を立て、猫背で歩いていた。
「モーツァルトだわ。交響曲第38番のアンダンテ」
杉本史子の言った通りだった。ここにはたいてい38番が流れていると、彼女は言った。ジェニャックはうなずいて、ベルトラムカ荘を見上げた。
ベルトラムカ荘は、プラハにある現在モーツァルト記念館になっている建物で、モーツァルトは、ここに滞在してオペラ「ドン・ジョバンニ」を作曲しました。交響曲第38番「プラハ」の名の由来は、プラハでオペラ「フィガロの結婚」が大成功し、招かれたモーツァルトがこの地で初演したことに、ちなんだものです。39番からの三大シンフォニーの陰に隠れている感じですが、これらに比べて決して見劣りしない名曲です。
右のアルバムは、カール・ベーム指揮ベルリン・フィルによる交響曲第38番K.504「プラハ」と第36番「リンツ」K.425、第39番K.543を併録したもの。
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3.アンジェリーナ 佐野元春と10の短篇 |
角川文庫
自他ともに認める佐野元春ファンである小川さんが、彼の曲をイメージして書いた短篇小説10篇を収録しています。小川さんの処女長編「シュガータイム」のタイトルも彼の曲からとられていました。小川さんが佐野元春の曲を初めて聴いたのは、19歳の時に、ボーイフレンドがプレゼントしてくれた「SOMEDAY」のレコードでした。
最初に流れてきたのが、「Sugartime」だった。
もうその瞬間から、身動きできなかった。それまでに聴いたどんな音楽とも違っていた。オリジナルで詩的で、真摯で、エネルギーにあふれていた。人間が音楽に感動するというのは、つまりこういうことなんだと、初めて実感できた。
それから一日中「SOMEDAY」を聴き続けた。窓から見える空と緑が、特別なもののように美しく見えた。
「妖精が舞い下りる夜」/小川洋子(角川文庫 '97初版)
この短篇集に収録されているのは、佐野元春の曲のタイトルから採られた「アンジェリーナ」、「バルセロナの夜」、「彼女はデリケート」、「誰かが君のドアを叩いている」、「奇妙な日々」、「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日々」、「また明日・・・」、「クリスマスタイム・イン・ブルー」、「ガラスのジェネレーション」、「情けない週末」の10篇です。
もともと佐野元春はミュージシャンの中では、とりわけ詩の才能に卓越したアーティストなので、作品のイメージを発展しやすいのではないかとも思います。それぞれの短篇の前には、歌詞も掲載されています。
全体として、小川さんの概して低温基調の他の主要作品と比べると温かい感触で、小川さん自身リラックスして楽しんで書いているんだなということが伝わってきます。とはいっても中には、体の一部の記憶が失われていくとか(誰かが君のドアを叩いている)、声だけを体から離してピアスケースにおさめる話(また明日・・・)など、いかにも小川ワールド風の作品も収録されています。
いくつかの短篇のストーリーと、そのタイトル曲が収録されている佐野元春のアルバムについてのコメントを加えてみました。
□アンジェリーナ
アンジェリーナ 君はバレリーナ
ニューヨークから流れてきた 淋しげなエンジェル
地下鉄の駅のホームのベンチで、僕は置き忘れたトウシューズを拾い、家に持ち帰った。内側には"ANGERINA"と刺繍されていた。僕は持主を探すため新聞に広告を出した。
ある日、アンジェリーナから電話がかかり、土曜日の午後、彼女は僕の家を訪れた。彼女はその日、トウシューズを持って帰らなかった。次の土曜日、再び訪れたアンジェリーナは、トウシューズをはいて踊ってみせて欲しいと頼んだ僕に事情を話してくれた。彼女はバレリーナだったが、膝の手術をするためにこの町に来たのだった。必要のないトウシューズを持って。
踊ることはできないけれど、と言って彼女はトウシューズをはいてみせてくれた。
彼女の足元で、不意に風が舞い上がったような錯覚を僕は覚えた。姿を見せた膝は、小さくて滑らかで、とても病気には見えなかった。トウシューズは肌の一部のようにぴったりと、足を包んでいた。爪先の曲線やリボンの結びめが、彼女を縁取る輪郭と一続きになっていた。壊れそうなくらい華奢(きゃしゃ)なのに、毅然としたしなやかさがあった。それは足というより、一つの奇跡だった。
「しばらくトウシューズを預かって。また踊れるようになったら、取りに来るから」と言って帰って行ったアンジェリーナは、それ以来、二度と現われなかった。
- 「Back to the Street」 '80
- 佐野元春の記念すべき1stアルバムです。デビューアルバムとして、この完成度の高さは驚くべきもの。
彼の最初のシングルでもある「アンジェリーナ」は、やはりアルバム中、最大の聴きものです。この曲の素晴らしさは、何といってもその疾走(ドライブ)感。以前BSで見たライブでは、スロー・バージョンを歌っていたけど、思いきりビートをきかせていて、こちらもなかなかよかった。
その他の曲も、みんな水準以上の出来で、ジョン・レノンが歌ってそうなロックンロール・ナンバー「Please
don't tell me a lie」やバラード・ナンバーの「情けない週末」と「バッド・ガール」などもとてもいい。
□奇妙な日々
土曜日の午後、今夜久しぶりにガール・フレンドがうちで夜を過ごすのだ。僕が夕食の準備をしていると、玄関のチャイムが鳴り、扉を開けると中年のおばさんが立っていた。おばさんは、この地区の地図作成の為の調査をしていると言い、最近空き地になった近所の土地に、以前何が建っていたかを僕に尋ねた。思い出せない僕だったが、おばさんはあきらめなかった。夕食の準備は着々と進み、おばさんは帰らず、ワイングラスを割ってしまい、彼女は約束の時間が過ぎても来なかった。
闖入者のおばさんに対する僕のとまどいと、待てど来ない恋人への焦りの想いをユーモラスに描いた作品です。
- 「Cafe Bohemia」 '86
- 5枚目のオリジナル・アルバムです。ポール・ウェラーが'83年に結成し、当時おしゃれなバンドとして人気があり、僕も大好きだったザ・スタイル・カウンシルのデビュー・アルバム「Cafe
Bleu」にアルバム・タイトルが似ているだけでなく、サウンド的にもザ・スタイル・カウンシルの大きな影響を受けている、というより彼らのサウンド・コンセプトを元春流に消化して、反映させたアルバムなのだと思います。インストルメンタル・ナンバーも含まれていますが、Jazzyな「カフェ・ボヘミアのテーマ」ではミック・タルボットを髣髴とさせるキーボード・プレイもフィーチャーされています。「Young
Bloods」と「Individualist」も明らかにザ・スタイル・カウンシルを意識した曲調となっています。
- "あの光の向こうにつきぬけたい 闇の向こうにつきぬけたい"とシャウトする「奇妙な日々」は、「99
Blues」とともに、このアルバムを代表する佐野元春らしい曲です。
□情けない週末
MOTOのコンサートが終って、外へ足を一歩踏み出すと、いつも街が濡れているように感じるのはなぜだろう。
その夜わたしは一人だった。コンサートの帰り、少し遠いけれど駅まで歩くつもりだった。何かが変だった。あたりを見回すと、いつの間にか人の姿はなかった。その時、通りの向こうから車が一台近づいてきた。
車は軽やかにクラクションを鳴らした。「SOMEDAY」のイントロに流れるのと同じ音色のクラクションだわと、まぶたの裏側で弾ける光を感じながらわたしは思った。
気がつくとわたしは地下鉄の通路にいた。通路の突き当たりの階段を上がると、外はさびれた公園だった。10年前、彼とよく待ち合わせをした公園だった。何もかもあの頃と同じだった。
10年前、彼の誕生日の夜、ショートケーキが二つ入った箱を揺らさないように、両手で抱えたわたしは、公園の入口で転んでしまったのだった。噴水の縁に腰掛け、わたしを待っていた彼は、ケーキを台無しにして、しょげている私を慰めてくれた。
「取り返しがつかない、ってことが、たまらなく怖かったの。さっきまで手にしていたものを、わたしは二度と目にすることはできないんだ。人間はこんなふうに、いくら大事にしているものでも、簡単になくしてしまうんだ。だから、もしかしたら公園に、あなたはもういないかもしれない。・・・・歩道にうつぶせになっているほんの数秒の間に、そんなことを考えたの」
10年前のあの夜と同じ場所に、わたしは腰を下ろした。あれから、わたしは彼を失った。ケーキを駄目にしたみたいに、あっという間に。そろそろ戻らなければ。でもどうやって、どこへ戻ったらいいのだろう。わたしには分らなかった。
- 「SOMEDAY」'82
- この短篇のタイトルの「情けない週末」は、アルバム「Back
to the Street」に収録されたバラードです。
- 「SOMEDAY」は、3枚目のオリジナル・アルバムで佐野元春の代表作の呼び声も高く、バック・コーラスやストリングスを効果的に配して、厚みのあるサウンドを創り出し、トータル・アルバムとしてクォリティの高い名盤だと思います。
- 「Sugartime」や「I'm in Blue」は、ナイアガラ・サウンド風のポップ・チューン。
- タイトル曲の「SOMEDAY」は、佐野元春の代表作の一つに数えられ、小説から引用しているように、曲の冒頭にクラクションなどの車の効果音が挿入されています。「Rock
& Roll Night」も「SOMEDAY」と並ぶ、このアルバムのハイライトで、スケールが大きく、コンサートでは会場が一体となって盛り上がる曲です。
- その他にも「Down Town Boy」、「麗しのドンナ・アンナ」や「Vanity
Factory」など彼らしい、いい曲が収録されています。
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4.博士の愛した数式(2003) |
新潮文庫
博士と同じように、80分しか記憶が保てないとしたらどうだろう。たぶん博士と同じように服のあちこちにクリップでメモ用紙を留めておくことだろう、そして一番目のつくところには、「僕の記憶は80分しかもたない」と書いたメモをつけておかなくてはならないだろうし、博士が数学雑誌の懸賞問題に没頭したように、僕なら音楽を聴いて日がな一日を過ごすに違いない。CD1枚の収録時間をわずかに超えるだけの記憶しか保てないがゆえに、出会うたびにまったく新たな感動を与えてくれるであろう音楽は、絶望の状況にあっても、きっと生き続ける支えとなってくれることだろうから。
でも愛はどうだろう。80分の間に新たに人を愛することは可能だろうか。
博士は64歳の数論を専門とする元大学教師だった。17年前の交通事故で頭を打ち、それ以降記憶が80分しかもたなくなった。かつて博士の数字攻撃に音を上げて解雇された9人の家政婦の後継として、私は未亡人の義姉が住む屋敷の離れで一人で暮らす博士の下に派遣された「新しい家政婦さん」(博士のメモ)だった。私には18歳で未婚の母として生み、育ててきた10歳になる息子がいて、子供を愛する博士の強い要請で、彼「新しい家政婦さんの息子10歳」は学校が終わると博士の家に来るようになった。博士は息子をルートと呼んだ。頭のてっぺんが、ルート記号のように平らだったから。
「君はルートだよ。どんな数字でも嫌がらず自分の中にかくまってやる、実に寛大な記号、ルートだ」
博士と私とルートが一緒に過ごした時間、はかないがゆえに三人での密度の濃い時間、夫と父とを持たなかった私とルートと、妻子を持つことがなかった博士とが共に過ごした短かくも忘れがたい時間を、愛と呼ぶことができるのではないだろうか。
博士がこの世でもっとも愛した数、素数。他の数には決して還元し得ない個性を主張する数。その出現を一定の規則により予想することが不可能な数。素数は純粋で、気まぐれな故に博士を虜にした数でした。そして、素数を含み世界を根本で支えている純粋概念としての数は、ゆるぎない真実の存在であり、博士にとってはもちろんのこと、二人きりの生活で充足しながらも不安を抱えていた私とルートにとっても、博士がその美しさと神秘とを垣間見せてくれた数の存在は、安らぎをもたらすものとなっていったのだと思います。
私はオイラーの公式を書いた博士のメモ用紙を手に数式の意味を知るために図書館に行き、数学の本をパラパラとめくり、その1ページ、1ページが宇宙の秘密を解く設計図、あるいは神の手帳を書き写したものではないかという思いを抱きます。
私のイメージの中では、宇宙の創造主は、どこか遠い空の果てでレース編みをしている。どんなか弱い光でも通す、上等の糸で編まれるレースだ。図案は主の頭の中だけにあり、誰もパターンを横取りできないし、次に現われる模様を予測もできない。編み棒は休みなく動き続ける。レースはどこまでものびてゆき、波打ち、風にそよぐ。思わず手に取り、光にかざしてみなくてはいられない。うっとりと潤んだ瞳で、頬ずりさえしてしまう。そしてそこに編み込まれた模様を、どうにかして自分たちの言葉で編み直せないかと願う。ほんの小さな切れ端でもいい、自分だけのものにして、地上に持ち帰るために。
永遠の真理を愛し、未来を託す子供たちを素数と同じように愛し、亡き兄の妻であった女性を愛した博士、ひたむきさにおいて博士に決して負けていない私、そして母を博士を心から愛し、博士のたどった道を歩もうとするルート、三人の純粋な心の交感に胸をうたれる作品です。
博士は数学の虜であっただけでなく、阪神タイガース時代に完全数28の背番号を付けて活躍した天才投手、江夏豊を崇拝していて、そしてルートも同じくタイガース・ファンであるという設定が、二人の交流において大きな意味を持っていました。
小川さんも熱烈なタイガース・ファンで、その熱さをエッセイ集「妖精が舞い下りる夜」に収録されている"私の阪神カレンダー"から窺うことができます。阪神を応援することが小川家の躾(しつけ)の一部であったそうで、中学生の頃には掛布と恋愛結婚するのが夢だったとか....
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(映画)博士の愛した数式(2006) |
(監督・脚本)小泉尭史 (音)加古隆 (演)寺尾聰、深津絵里、吉岡秀隆、浅丘ルリ子、斉藤隆成
交通事故のため記憶が80分しか持続しない博士と、博士の世話のために派遣されたシングルマザーの家政婦さんと、彼女の10歳になる息子ルートが、博士の語る美しい数式の世界を媒介にして次第に本物の家族以上に心の交流を深めていく過程を描いています。
映画では、成人して中学校の数学教師となったルートが導入役となり、学年の最初の授業での自己紹介として、生徒たちに自分や母と博士との関わりあい、そして博士から教わった数式の美しさのエッセンスを説明するという設定となっていました。
監督の小泉さんの造形した博士像は原作に比べ、ずっと情に優ったおだやかな人格となっていて、少年たちに野球を教えるほどの社会性を備えていました。
小泉尭史の前監督作品「阿弥陀堂だより」の91歳のおうめ婆さんが語る言葉の重みと、博士が愛する数式を語る言葉とは、深いところで通じ合っているのではないかと感じました。おそらくは、二人のたどった道筋は違っていても、ともにこの世界を支える真理の存在を直観することにより得た周囲に注ぐ優しいまなざしが共通しているのではないかと思いました。
やはり「阿弥陀堂だより」と同様に、信州の自然の美しさと、映像に寄り添うような加古隆さんの音楽も見どころ、聴きどころでした。
映画を見終わった後では、この作品のキャスティングとしてこれ以上のものは考えられません。前2作の小泉監督作品で主演した寺尾聰はもちろんのこと、家政婦さん役の深津絵里、事故以前に博士と深く愛し合っていた未亡人役の浅丘ルリ子も適役でした。
原作を読んだときにも感じたことですが、博士の愛したオイラーの美しい公式、全く起源の異なる2つの定数、円周率(π)とネイピア数(e)を用いた極めてシンプルな数式e(iπ)+1=0が成りたつという不思議さと美しさ。あらためてこの世界を支える"見えない真理(真実)"に思いをはせました。
映画の最後に、ロマン派の詩人ウィリアム・ブレイクの100行以上に及ぶ詩「Auguries
of Innocence 無心のまえぶれ」の冒頭4行が呈示されていました。
ひとつぶの砂にも世界を
いちりんの野の花にも天国を見
きみのたなごころに無限を
そしてひとときのうちに永遠をとらえる
たなごころ:手のひら
(寿岳文章 訳 映画では小泉監督の訳が示された)
おそらくは直感でしか捉えられない、この世界を支えている真理("永遠"と等価ではないか)が在るという予感をもつことだけでも随分と勇気づけられます。
(参考)
- 「博士の愛した数式」公式サイト
- ウィリアム・ブレイクの詩「Auguries of Innocence
無心のまえぶれ」(当HP)
- 加古隆のアルバム紹介(当HP)
- 映画「阿弥陀堂だより」の紹介(Myブログ)
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5.猫を抱いて象と泳ぐ(2009) |
文春文庫
盤下の詩人と呼ばれた伝説の孤高のチェスプレーヤー、リトル・アリョーヒンの物語です。
極端に口数の少ない子供だった彼が語りかけるのはインディラとミイラの二人だけでした。インドからやってきた子象のインディラは大きくなってデパートの屋上から降ろすことができなくなり、そこで彼女の生涯を終え、ミイラは隣り合った家の狭い壁と壁の隙間に挟まって出られなくなって死んだ空想の少女でした。
ある日、バス会社の操車場に置かれた回送バスに暮らすチェス・マスターと出会い、チェスの魅力と奥深さを知った少年は、その才能を開花させていきます。
チェス盤には、駒に触れる人間の人格すべてが現れ出る。哲学も情緒も教養も品性も自我も欲望も記憶も未来も、とにかくすべてだ。隠し立てはできない。チェスは、人間とは何かを暗示する鏡なんだ。
チェスの試合は一人でやるものじゃない。チェス盤に描かれる詩は、白と黒、両方の駒が動いて初めて完成する。相手が強ければ強いほど、今まで味わったこともない素晴らしい詩に出会える可能性が高まるんだ。
身体が大きくなりすぎて悲劇に遭遇したインディラとミイラ、そしてマスター。彼は大きくなることを止め、からくり人形の中に潜み、チェスプレーヤー、リトル・アリョーヒンとしての伝説を築いていくことになります。
盤面に置くチェスの駒音だけが響いてくるような、しんとした静かな小説です。
リトル・アリョーヒンとチェスの関係は、博士と数式のそれにとても近いのではないかと思います。孤高の二人にとってチェスと数式は、彼らと世界をつなぐたったひとつの窓だったのでしょう。
心の底から上手くいってる、と感じるのは、これで勝てると確信したときでも、相手がミスをした時でもない。相手の駒の力がこっちの陣営でこだまして、僕の駒の力と響き合う時なんだ。そういう時、駒たちは僕が想像もしなかった音色で鳴り出す。その音色に耳を傾けていると、ああ、今、盤の上では正しいことが行われている、という気持ちになれるんだ。
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6.人質の朗読会(2011) |
日本から遠く離れた国へのツアーに参加した7人の旅行者と添乗員の計8名の日本人が反政府ゲリラに拉致され、100日以上も膠着状態が続いた中、人質たちは閉じ込められていた小屋の中で、床板や戸棚の横板などに自ら書いた話を朗読し合っていました。朗読会の観客は人質の他、見張り役の犯人と、小屋を盗聴していた政府作戦本部の兵士でした。
朗読された内容は様々ですが、8人それぞれの人生の点景が順番に語られ、最後に盗聴していた男の話が加えられて、全体として9篇からなる連作短篇小説集の構成となっています。
勤続30年の長期休暇を利用して旅行に参加した53歳の女性は、11歳のときの夏休みに公園でブランコから落ちて歩けなくなった近所の鉄工所の工員のためにクヌギの枝を切って杖を作ったこと、そして10年以上経って交通事故で意識不明になったとき、夢の中でその工員に足を治してもらったことを話しました。
また、調理師専門学校で菓子作りを教えていた61歳の女性は、高校を卒業してビスケット製造会社に入社し、住んでいたアパートの強欲で整理整頓にやかましい大家さんと、アルファベットのビスケットを使って言葉綴りをした話。そのほか公民館のB談話室で開かれた様々な会合の話や、満員の通勤電車で投擲(とうてき)の槍を抱えた青年に出会った話など、どれも決して人生の大きなイベントとは結びつかないけれど、朗読者にとって大切な思い出が語られます。
最後に盗聴器に耳をそばだてていた22才の政府側の兵士の話が置かれています。彼が子供のとき初めて外国人を目にしたのは3人の日本人で、彼らは昆虫の研究者で、森でハキリアリ(葉切り蟻)を観察していました。ヘッドフォンから人質たちの朗読が聞こえてきたとき、彼が思い浮かべたのは、ハキリアリの行列が作る緑の行列でした。
日本語の響きを耳にした瞬間、ずっと忘れていた三人の訪問者の姿が鮮やかによみがえり、同時にハキリアリたちが行進をはじめた。
各々、自らの体には明らかに余るものを掲げながら、苦心する素振りは微塵も見せず、むしろ、いえ平気です、どうぞご心配なく、とでもいうように進んでゆく。余所見(よそみ)をしたり、自慢げにしたり、誰かを出し抜いたりしようとするものはいない。これが当然の役目であると、皆がよく知っている。木々に閉ざされた森の奥を、緑の小川は物音も立てず、ひと時も休まず流れてゆく。自分が背負うべき供物を、定められた一点へと運ぶ。
そのようにして人質は、自分たちの物語を朗読した。
すべての人々には、ささやかだけど、その人にとってかけがえのない思い出があるのだというそんな当たり前のことを、あらためて気づかせてくれた作品でした。
2008年から2010年にかけて雑誌に連載された小説ですが、静謐な感触の文体とその読後感から、2011年3月の大震災で亡くなった人々への鎮魂の書であるようにも感じました。もしも自分が朗読する順番になったとしたらどんなことを語ろうか、この機会に考えてみようと思います。
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7.最果てアーケード(2012) |
本書は連載コミックの原作として書き下ろされたものだそうですが、中身は100%いつもの小川ワールドが広がっていました。
そこは世界で一番小さなアーケードだった。そもそもアーケードと名付けていいのかどうか、迷うほどであった。
入口はひっそりとして目立たず、そこから覗くと中は、目が慣れるまでしばらく時間がかかるくらいに薄暗い。通路は狭く、所々敷石が欠け、ほんの十数メートル先はもう行き止まりになっている。お揃いの細長い二階建ての作りになった店はどれも、一様に古びている。二階の雨戸が外れかけたり、ツバメの巣の残骸が壁に張り付いていたり、看板の字が半分消えたままになっていたりする。屋根にはめ込まれたステンドグラスは偽物で、すっかり煤(すす)け、どんなに天気のいい日でもぼんやりした光しか通さない。すぐ前の大通りを路面電車が走ると、一斉に店のガラス戸が震え、その一瞬だけにぎやかになった錯覚に陥るが、すぐにまた静けさが戻ってくる。
もしかするとアーケードというより、誰にも気づかれないまま、何かの拍子にできた世界の窪み、と表現した方がいいのかもしれない。
小説の冒頭部分からの引用です。
語り手である"私"の父はアーケードの大家でしたが、私が16歳のときに町の半分が焼けた大火事で死んでいます。母は私が小さいときに病気で亡くなっていました。アーケードは大火事に焼け残り、私は父の死後もずっとそこで飼い犬のベベと暮らし、アーケードの店の品物の配達係をしています。
アーケードの店はすごく狭くて、ショーウィンドーは箱庭ほどのスペースしかありません。そこには、使い古しのレースだけを扱う店、動物の剥製とか彫刻や人形のための義眼専門店、古い勲章を売る店、シンプルなドーナツ1種類だけを売っている店、使用済みの絵葉書を売っている紙店、ドアノブの専門店があり、愛するものを失くした人たちが思い出の品々を求めて訪れます。このアーケードの店主たちは皆、自分の商品と深く親愛の情を結び、そしてここを訪れる客たちも同様でした。
ときおりやって来る客を辛抱強く待ち続けるアーケードは静けさに充ちています。そしてまた、私の父や母をはじめとして、ミシンにもたれて息絶えたレース店の常連だった衣装係さん、私が小さいときに一番奥にある読書休憩室で一緒に遊んだRちゃんの死、遺髪専門のレース編み師の若い女性など、死のイメージも濃厚な世界です。
ドアノブ専門店には、取っておきの雄ライオンの頭が彫刻されたドアノブがあります。その奥には、わずかな空洞、世界の窪みのようなアーケードに隠された、もうひとつの窪みがあって、私は途方にくれたとき、居たたまれないときなど、ドアノブを回してその空洞に体を押し込め、その暗がりの中でひと時を過ごしました。父が死んだ時も、Rちゃんが死んだ時にも。配達係としての最後の役目を終えてライオンのドアノブを回す私に、心から「ごくろうさま」と声をかけてあげたい。
"アーケード"のタイトルから、大好きなアメリカの作家、スティーヴン・ミルハウザーの短篇「イン・ザ・ペニー・アーケード」(1985)を連想しましたが、小説全体を覆う静謐な雰囲気と静物に対する独特の親密感は共通したものがあるようです。
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(コミック)最果てアーケード(2012)/有永イネ
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有永さんは私が気づかない場所に隠れているものを、たくさん発見してくれました。それらがどれほど思いがけない結びつきをしているか、指し示してくれました。有永さんの絵がなければ、到底私は主人公の少女を、最後まで見送ることはできなかったでしょう。漫画があったからこそ、少女の帰ってゆく場所をはっきり見定めることができたのです。(小川洋子・コミックあとがきより)
小川さんが書き下ろしたコミックのための原作をもとに、コミック誌「BE・LOVE」に2011年から2012年にかけて連載されました。小川さんは、あとがきで、"正直なところ、今でも漫画の原作を書いたという意識はなく"と述べていて、本当にその通りだと思うので、もともとコミック化には向かない小川さんの世界を、有永さんがどう"料理"したのだろうか興味深々でした。
有永さんは、小川さんの原作にキャラクター性や動きを与えるということ、会話がない世界に言葉を与えることが、小川さんに真っ向から銃口を向けているような気がして、何度も立ち止まろうとしたけど、そのたび小川さんに励まされ、小説と漫画が全く違う表現になってしまうならば、せめて主人公の足の向かう先が同じであれ!という思いで描いた、と述べています。有永さんのそうした潔(いさぎよ)さが、結果として、コミックによる"翻訳"ではない、小川さんの小説とは異なる読者層を意識したもうひとつの"最果てアーケード"の世界を作りだすことにつながったのだと思います。
コミックも小説の章立てをそのまま踏襲していますが、各エピソードは時間の流れに沿って配置されていなくて、前後関係がわかりにくい場合もあり、コミック巻末に掲載された作品の各エピソードを"大火事"前後で整理した「よくわかる年表」が参考になります。
(参考)
・スティーヴン・ミルハウザーの作品紹介(本サイト)
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(紹介予定)余白の愛(1991) |
中公文庫
突発性難聴の女性が速記者の指を愛してしまうという、小川さんらしい幻想的で哀しい恋愛小説。
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140文字紹介:Twitter投稿 |
○ 小箱(2019)
子どものいない世界、私は元幼稚園で暮らし、亡くなった子どもたちの未来が保存されているガラス箱の世話をする。
届くたびに文字が小さくなっていく恋文、手作りのとても小さな楽器による”一人一人の音楽会”・・・
小川さんらしい静謐な哀しさが極まった感のある小説です。
○約束された移動(2019)
小川さんらしい独特の世界を堪能できる6編の短編集。
ホテルのスイートルームにハリウッド俳優Bが泊まるたびに客室の本棚から1冊の本が抜き取られていたことに気づく客室係の”私”(表題作)と大作家「巨人」と過ごした通訳の”私” (巨人の接待)の話が好きです。
ハリウッド俳優が抜き取っていた本は、いずれも移動していく物語だった。
マルケス『無垢なエランディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語』、コンラッド『闇の奥』、タブツキ『インド夜想曲』、テグジュペリ『夜間飛行』、・・・最後は、スタインベック『怒りの葡萄』。
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■参考Webサイト |
○小川洋子 関連出版
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■主要作品リスト |
- 揚羽蝶が壊れる時(1988)
- 完璧な病室(1989)
- 冷めない紅茶(1990)
- シュガータイム(1991)
- 妊娠カレンダー(1991)
- 余白の愛(1991)
- アンジェリーナ 佐野元春と10の短編(1993)
- 妖精が舞い下りる夜(1993):エッセイ
- 密やかな結晶(1994)
- 薬指の標本(1994)
- アンネ・フランクの記憶(1995):ノンフィクション
- 刺繍する少女(1996)
- ホテル・アイリス(1996)
- やさしい訴え(1996)
- 凍りついた香り(1998)
- 寡黙な死骸みだらな弔い(1998)
- 深き心の底より(1999):エッセイ
- 沈黙博物館(2000)
- 偶然の祝福(2000)
- まぶた(2001)
- 貴婦人Aの蘇生(2002)
- 博士の愛した数式(2003)
- ブラフマンの埋葬(2004)
- 世にも美しい数学入門(2005):藤原正彦 対談
- ミーナの行進(2006)
- おとぎ話の忘れ物(樋上公実子/絵)(2006)
- 海(2006)
- 犬のしっぽを撫でながら(2006):エッセイ
- 夜明けの縁をさ迷う人々(2007)
- 物語の役割(2007):エッセイ
- 博士の本棚(2007):エッセイ
- 小川洋子対話集(2007):対談
- 科学の扉をノックする(2008):エッセイ
- 生きるとは、自分の物語をつくること(2008):河合隼雄 対談
- 猫を抱いて象と泳ぐ(2009)
- 心と響き合う読書案内(2009):エッセイ
- カラーひよことコーヒー豆(2009):エッセイ
- 原稿零枚日記(2010)
- 祈りながら書く 「みち」シリーズ 2 (2010):エッセイ
- 人質の朗読会(2011)
- 妄想気分(2011:エッセイ
- 最果てアーケード(2012)
- ことり(2012)
- とにかく散歩いたしましょう(2012):エッセイ
- いつも彼らはどこかに(2013)
- 琥珀のまたたき』(2015)
- 不時着する流星たち(2017)
- 口笛の上手な白雪姫(2018)
- 小箱(2019)
- 約束された移動(2019)
- あとは切手を、一枚貼るだけ(2019)堀江敏幸との共著
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