詩集「山羊の歌」(1934)より
汚れつちまつた悲しみに
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪のふりかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる
汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の皮裘(かはごろも)
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる
汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむことなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む
汚れつちまつた悲しみに
いたいたいしくも怖気づき
よごれつまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる・・・・・
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サーカス
幾時代かがありまして
茶色い戦争ありました
幾時代かがありまして
冬は疾風吹きました
幾時代かがありまして
今夜此処(ここ)での一と殷盛り(ひとさかり)
今夜此処での一と殷盛り
サーカス小屋は高い梁(はり)
そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ
頭倒(さか)さに手を垂れて
汚れ木綿の屋蓋(やね)のもと
ゆあーん ゆよーん ゆあゆよん
それの近くの白い灯が
安値(やす)いリボンと息を吐き
観客様はみな鰯
咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
屋外(やぐわい)は真ッ闇(くら) 闇(くら)の闇(くら)
夜は劫々(こふこふ)と更けまする
落下傘奴のノスタルヂアと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
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朝の歌
天井に 朱きいろいで
戸の隙を 洩れ入る光、
鄙(ひな)びたる 軍楽の憶ひ
手にてなす なにごともなし。
小鳥らの うたはきこえず
空は今日 はなだ色らし、
倦んじてし 人のこころを
諌(いさ)めする なにものもなし。
樹脂の香に 朝は悩まし
うしなひし さまざまのゆめ、
森並は 風に鳴るかな
ひろごりて たひらかの空、
土手づたひ きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。
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黄昏
渋つた仄(ほの)暗い池の面(おもて)で、
寄り合った蓮の葉が揺れる。
蓮の葉は、図太いので
こそこそとしか音をたてない。
音を立てると私の心が揺れる、
目が薄明るい地平線を逐(お)ふ・・・・・・
黒々と山がのぞきかかるばつかりだ
― 失はれたものはかへつて来ない。
なにが悲しいたつてこれほど悲しいことはない
草の根の匂ひが静かに鼻にくる、
畑の土が石といつしよに私をみてゐる。
― 竟(つひ)に私は耕やさうと思はない!
ぢいつと茫然黄昏(ぼんやりたそがれ)の中に立つて、
なんだか父親の映像が気になりだすと一歩二歩歩みだすばかりです
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夏の日の朝
青い空は動かない、
雲片(ぎれ)一つあるでない。
夏の真昼の静かには
タールの光も清くなる。
夏の空には何かがある、
いぢらしく思はせる何かがある、
焦げて図太い向日葵が
田舎の駅には咲いてゐる。
上手に子供を育てゆく、
母親に似て汽車の汽笛は鳴る。
山の近くを走る時。
山の近くを走りながら、
母親に似て汽車の汽笛は鳴る。
夏の真昼の暑い時。
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少年時
黝(あをぐろ)い石に夏の日が照りつけ、
庭の地面が、朱色に睡つてゐた。
地平の果に蒸気が立つて、
世の亡ぶ、兆(きざし)のやうだつた。
麦田には風が低く打ち、
おぼろで、灰色だつた。
翔びゆく雲の落とす影のやうに、
田の面(も)を過ぎる、昔の巨人の姿
―
夏の日の午(ひる)過ぎ時刻
誰彼の午睡(ひるね)するとき、
私は野原を走つていつた・・・・・
私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦めてゐた・・・・・
噫(ああ)、生きてゐた、私は生きてゐた!
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妹よ
夜、うつくしい魂は涕(な)いて、
― かの女こそ正当(あたりき)なのに ―
夜、うつくしい魂は涕いて、
もう死んだつていいよう・・・・・といふのであった。
湿った野原の黒い土、短い草の上を
夜風は吹いて、
死んだつていいよう、死んだつていいよう、と、
うつくしい魂は涕くのであった。
夜、み空はたかく、吹く風はこまやかに
― 祈るよりほか、わたくしに、すべはなかつた・・・・・・
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寒い夜の自画像
きらびやかでもないけれど
この一本の手綱をはなさず
この陰暗の地域を過ぎる!
その志明らかなれば
冬の夜を我は嘆かず
人々の焦燥のみの愁(かな)しみや
憧れに引廻される女等の鼻唄を
わが瑣細なる罰と感じ
そが、皮膚を刺すにまかす。
蹌踉(よろ)めくままに静もりを保ち、
聊(いささか)かは儀文めいた心地をもつて
われわが怠惰を諌める
寒月の下を往きながら。
陽気で、坦々として、而(しか)も己を売らないことをと、
わが魂の願ふことであつた!
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夏
血を吐くやうな 倦(もの)うさ たゆけさ
今日の日も畑に陽は照り、麦に陽は照り
睡るがやうな悲しさに、み空をとほく
血を吐くやうな倦うさ、たゆけさ
空は燃え、畑はつづき
雲浮び、眩しく光り
今日の日も陽は炎ゆる、地は睡る
血を吐くやうなせつなさに。
嵐のやうな心の歴史は
終焉(おわ)つてしまつたもののやうに
そこから繰(たぐ)れる一つの緒(いとぐち)もないもののやうに
燃ゆる日の彼方に睡る。
私は残る、亡骸(なきがら)として
―
血を吐くやうなせつなさかなしさ。
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心象
T
松の木に風が吹き、
踏む砂利の音は寂しかつた。
暖かい風が私の額を洗ひ
思ひははるかに、なつかしかつた。
腰をおろすと、
浪の音がひときは聞えた。
星はなく
空は暗い綿だった。
とほりかかつた小舟の中で
船頭がその女房に向つて何かを云つた。
― その言葉は、聞きとれなかつた。
浪の音がひときはきこえた。
U
亡びたる過去のすべてに
涙湧く。
城の塀乾きたり
風の吹く
草靡(なび)く
丘を超え、野を渉り
憩ひなき
白き天使のみえ来ずや
あはれわれ死なんと欲す、
あはれわれ生きむと欲す
あはれわれ、亡びたる過去のすべてに
涙湧く。
み空の方より、
風の吹く
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