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歌人
河野裕子(1946−2010


熊本生まれ。高校3年の秋、「コスモス短歌会」に入会する。京都女子大学在学中に第15回角川短歌賞を受賞。1972年、第1歌集『森のように獣のやうに』出版と同時に結婚し、上京。5年後、京都に戻る。1984年夫の留学に伴い、二人の子供を連れて渡米。2年後帰国。1988年「コスモス」を退会し、「塔」会員となる。朝日カルチャー講師。NHK学園選者。毎日歌壇選者。 (『河野裕子歌集』より)


1.処女歌集『森のやうに獣のやうに』より
青春の息吹が鮮烈な処女歌集『森のやうに獣のやうに』に収録されている300余首の中から、選んでみました。
河野裕子歌集(現代短歌文庫) '91初版

これは私の青春の証である。他にも生き方があったのではなく、このようにしか私には生きられなかったのである。悔いだらけの青春ではあるけれども、もういちど生まれて来ても、今日まで生きて来たのと同じ青春を選び取ろう。
『森のやうに獣のやうに』 あとがきより
              
森のやうに獣のやうにわれは生く群青の空耳研ぐばかり

虚しさは虚しさのみに戻りゆき砂時計無心に時を移しゐつ

吾が為に薔薇盗人せし君を少年のごとしと見上げてゐたり

あはれ常に鏡の裡よりのぞきゐる暗く澄みたるひとつの顔あり

君の持つ得体の知れぬかなしきものパンを食ぶる時君は稚し

透明を重ねゆくごとき愛にして汝は愛さるることしか知らぬ

癒えたならマルテの手記も詠みたしと冷たきベッド撫でつつ思ふ

一輪の紅き冬薔薇くれし少年もかなしみもとほくなりたり

炎ゆる髪なびかせ万緑に駈けゆきし青春まぎれなくま裸なりき

寝ぐせつきしあなたの髪を風が吹くいちめんにあかるい街をゆくとき

デボン紀の裸子植物のせしごとき浅き呼吸を恋ひつつ睡る

夕闇の桜花の記憶と重なりてはじめて聴きし日の君が血のおと

逆光の耳ばかりふたつ燃えてゐる寡黙のひとりをひそかに憎む

横たはる獣のごとき地の熱に耳あててゐたり陽がおちるまで

ふるさとの雨後の丘に光りつつ虹まとひをりたる椎よ

ブラウスの中まで明るき初夏の日にけぶれるごときわが乳房あり

坂こえて来たる夕雲ふかぶかと野の花いろの光ふくみて

予感めくかなしみに似てつばめよつばめ紫紺の羽を濡らして飛ぶぞ

振りむけばなくなりさうな追憶の ゆふやみに咲くいちめんの菜の花

耳熱く睡りゐし夜も病みてゐしわれの頭蓋よ草そよぎつつ

森のやうに獣のやうにわれは生く群青の空耳研ぐばかり

いまだ暗き夏の真昼を耳閉ざし魚のごとくに漂ひゐたり

抱かれてなほやりどなきかなしみは汝が眸の中を樹が昏れてゆく


2.わたしはここよ(2011)
 
何といふ顔をしてわれを見るものか私はここよ吊り橋ぢやない

 河野(かわの)さんは、2010年8月に乳癌のため64歳で亡くなりましたが、本書は1994年から2010年までに新聞や短歌誌に掲載されたエッセイをまとめたものです。短歌を題材としたものが多いのは勿論ですが、身辺雑記や家族のこと、紀行文など、バラエティに富んでいます。無駄がなく見通しのよい文章は、言葉を選び抜き紡いだ天性の歌人ならではだと思いました。
 河野さんが乳癌の告知を受けたのは2000年9月で、手術によりいったんは小康を得ますが、2008年7月に再発が見つかり、亡くなるまで2年間にわたる闘病でした。エッセイ集のタイトルにとられた冒頭の歌は、京大病院で乳癌の宣告を受けた日、路上で夫(歌人の永田和宏)に出会ったときの一首です。

 永田と別れて、鴨川沿いの道を車を運転して帰ったが、涙があふれてしかたなかった。私の人生の残り時間はあとどれくらい残っているのだろう。それまでに出来る仕事のことを考えずにはいられなかった。きらきら光る鴨川の水面が美しい。出町柳界隈を、いつものように歩いたり、自転車に乗って行き過ぎる学生達がまぶしい程若くいきいきと見えた。この世はこんなに明るく美しい所だったのか。何故このことに今まで気がつかなかったのだろう。かなしかった。かなしい以上に生きたいと思った。

 エッセイで記された、日々の哀歓や些事を歌にして表現することには、自己治癒の力があるに違いないという確信や、短歌の場合はキャリアは何の役にも立たないという言葉は、中学生のころから歌を作り続けてきた河野さんの実感がこめられています。大歌人ほど駄作が多いという逆説的な表現も印象的でした。
 掲載されている最後のエッセイは、亡くなる半年前に室生寺を訪れたときのことを記したものです。抗癌剤の副作用で辛い状態の中で、寺の急坂を一段一段、夫につかまりながらのぼり、金堂の釈迦如来像に手を合わせ、河野さんは長い間祈っていました。帰ってからも室生寺のことが頭から離れなかった河野さんは、10日後に無理を承知でひとりで出かけ、やっとの思いで仏たちと再会します。

 今、この年齢になってみて、病を背負い、誰にも何者に縋(すが)っても救われないわたしは、ただただ祈るためにだけに室生寺を再び訪れた。平安を得たかと言えばそれは嘘になる。しかし、人間には生涯にただ一度という出会いというものがあり、それが今回の女人高野室生寺との出会いであった。
 わたしに残されたこの世の時間は、もうそんなにないだろう。元気で怖いもの知らずであったなら、こんなにも謙虚に仏さまを拝むこともなかっただろう。


この寺に来ることはもうできず水音の室生川の橋ふり向かず渡る

河野さんが生涯にわたって繰り返し読んだというヘッセの「デミアン」を、再読してみようと思っています。


3.たとえば君 四十年の恋歌(2011)/河野裕子・永田和宏
    
 
たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行ってはくれぬか 河野裕子

きみに逢う以前のぼくに遭いたくて海へのバスに揺られていたり 永田和宏

 河野さんと永田さんは、それぞれ21歳、20歳の時に歌を通じて出会い、結婚しましたが、冒頭の2首はその当時の二人の歌です。夫の永田さんは京大の教授などを歴任した著名な細胞生物学者で、歌人としても、斎藤茂吉短歌文学賞を始め数々の文学賞を受賞しています。
 本書は、この40年間余に互いに相手を詠んだ相聞歌380首を再録し、さらに河野さんの生涯の折々の文章と、永田さんによる河野さんの最後の日々の記録が掲載されています。
 河野さんは、亡くなる前の一月ほどの間に200首近くを、寝ながら、手帳やティッシュペーパーの箱、薬袋などに書き残し、死の前日まで歌を作り続けました。そして書く力もなくなると口述筆記となり、最後の一首は痛切な相聞の歌でした。

手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が

永田さんは、河野さんの残した歌を書き写しながら、敬虔な思いにとらわれていきます。

 純粋に歌を愛し、歌を詠うために生れてきたような歌人がここに居る。それが活字になるのを見届けることは叶わなくとも、ごく自然に、呼吸をするように歌を作りつづける。歌を作りつづけるという作業の純粋性において、河野裕子は、やはり生まれながらの歌人であったのだと思う。そして、それが私の妻であった。そのことを誇りに思うのである。

たつたひとり君だけが抜けし秋の日のコスモスに射すこの世の光



河野裕子 関連書籍
○ 参考資料
河野裕子(Wikipedia)
・家族の歌 河野裕子の死を見つめた344日
  ガンにたおれた妻であり、母である河野裕子と家族が詠んだ歌とエッセー63編。
  
・河野裕子 (シリーズ牧水賞の歌人たち)
  
・河野裕子読本 角川『短歌』ベストセレクション
  
 

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