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Iris Murdoch(1919 - 1999)
アイリス・マードック

アイルランドの首都ダブリンで生まれ、一家は彼女が幼いときにロンドンに移り住んだ。1938年にオックスフォード大学に入学し、古典と哲学を学んだ。1942年に戦時臨時要員として大蔵省に入り、1944年には国連救済復興機関に加わり、第二次世界大戦後はベルギーやオーストリアの難民救済キャンプで働いた。ベルギー滞在中、サルトルに会い、実存主義への関心を深めた。1946年に帰国し、1948年から1963年までオックスフォード大学で哲学の特別研究員として哲学の研究指導にあたった。1954年に処女小説「網のなか」を出版、「海よ、海」(1978)でブッカー賞を獲得した。晩年はアルツハイマー症に冒され、彼女の夫で文芸評論家のジョン・ベイリーが著した回想録をもとにした映画「アイリス」('01)が公開された。



1.The Bell/(1958)
難易度:☆☆☆

Dora Greenfield left her husband because she was afraid of him. She decided six months later to return to him for the same reason. The absent Paul, haunting her with letters and telephone bells and imagined footsteps on the stairs had begun to be the greater torment. Dora suffered from guilt, and with guilt came fear. She decided at last that the persecution of his presence was to be preferred to the persecution of his absence.

 冒頭の文章からの引用です。
 ドーラは支配的な夫ポールが恐(こわ)くて家を出ていたが、半年後、同じ理由により夫のもとに帰ることに決めた。彼女にとって、ポールからの手紙や電話や、想像上の彼の足音に脅(おびや)かされるよりは、目の前の彼に悩まされる方がましだと考えたのだった。
 ドーラはまだ20代の若さで、美術学生だった彼女に求婚したポールは彼女より13歳年上の美術学者だった。古文書の研究のため、尼僧院に付属しているインバー・コートという館に滞在していたポールは、そこにドーラを呼び寄せた。インバー・コートでは熱心なクリスチャンたちが半俗世的共同生活を営んでいて、主要メンバーには共同体のリーダー、マイクルを始め、準リーダー的存在であるジェイムズ、中年のマーク夫妻、尼僧になろうとしている若い女性キャサリン、彼女の兄のニック、ドーラと一緒に到着した短期滞在の学生トビーなどがいた。尼僧院には、新しく鐘が取り付けられることになっていたが、トビーは何世紀も前に失われた鐘を湖の底で見つけ、それを聞いたドーラと二人で、新しい鐘の除幕式の日に鐘をすり替えてしまおうと企んだ。

 哲学者でもあるマードックらしく、この作品には様々なメタファーが盛り込まれているようです。たとえば、"鐘"が象徴するものとは何なのか。ここでは"鐘"は、登場人物それぞれにとって独自の意味を持つものであるようです。リーダーのマイクルは共同体での講話の中で、ゆれ動く鐘のイメージを精神の働きの象徴としてとらえています。一方、ジェイムズが行なった講話では、彼は鐘のイメージとして誠実、純潔、素朴を挙げ、それは彼が心を寄せているキャサリンを指し示すものでした。
 マイクルは同性愛者であり、かつてニックとのスキャンダルの為、聖職者となることを断念した過去を持ち、今はトビーに対する自らの感情ににとまどいを感じていました。神が同性愛者をも創造したのは、どんな意図があってのことだろうか。彼は今もなお愛していたニックと別れた後、"There is a God, but I do not believe in Him."という辛い認識に至ることになります。
 この小説の主人公ともいえるドーラにとって、鐘の意味するところは何であったのか。強引で嫉妬深くて支配的なポールを恐れながらも、保護者としての彼を必要としていたドーラは、古い鐘を湖の底から引き上げ、そしてその鐘に体当たりして、何世紀もの間沈黙していた鐘の音を村中に響きわたらせるという行為を通じて、自分を縛ってきたポール(権威)の束縛から解放されることになります。ドーラにとって鐘は自由の象徴であったわけです。

 ドーラがトビーに、二人だけで鐘を引き上げて皆をびっくりさせようと、渋るトビーをそそのかす場面 ;

'Nothing is too difficult,' said Dora. 'I feel this was meant for us. I should like to shake everybody up a bit. They'd get a colossal surprise - and then they'd be so pleased at having the bell, it would be like an unexpected present. Don't you think?'
'Wouldn't it be - somehow in bad taste?' said Toby.
'When something's fantastic enough and marvellous enough it can't be in bad taste,' said Dora. 'In the end, it would give everyone a lift. It would certainly give me a lift! Are you game?'
Toby began to laugh. He said, 'It's a most extraordinary idea. But I'm sure we couldn't manage it'
'With an engineer to help me,' said Dora, 'I can do anything.'

 神と人間との関係、性、自由といったテーマを扱った作品ですが、とくに人間と神との関係については、この小説世界を3つの領域に明確に区分することができます。それらは、(1)神がすべての領域(尼僧院) (2)神を希求する領域(インバー・コート) (3)神とは無縁の領域(ドーラ) であり、この作品はそれぞれの領域における人間性を明らかにすべく、作者がそれらに属する人間の思考、行動をシミュレートしていると考えることもできます。この小説世界の中で、もっとも精彩を放っているのが尼僧院のシスターたちであり、ドーラであることが興味深いところです。
 多分に観念的な側面はありながらも、読んでいる間はそういったことをじっくり考えている余裕がないくらい、登場人物の関係図式とか僧院という舞台設定や、鐘をめぐるストーリーの展開が面白く読める小説です。そうした面白さは、マードックが、オースティン以来の人間観照に基づくヒューマン・コメディの要素を継承しているところからもたらされているのではと思います。


2.Under the Net/網の中(1954)

 英国の女流作家アイリス・マードックの処女長編です。
 知性派の作家として知られた彼女は、晩年にアルツハイマー症に侵され、評論家の夫、ジョン・ベイリーによる回想録「作家が過去を失うとき」とその続編の「愛がためされるとき」では、二人の出会いと恋愛、結婚生活、そしてアイリスが発症する前後の二人の日常が描かれていました。回想録の映画化作品「アイリス」も感動的な作品でした。

 この小説の主人公のジェイクは30代の作家ですが著作はほとんどなく、フランスの二流作家の小説を翻訳して辛うじて生計を立てていましたが、居候していた友人(女性)に恋人ができた為、彼女のアパートを追い出される羽目になります。
 ジェイクは次の居候先を確保する為、ロンドン中を巡って友人たち、かつての恋人、現在も愛している女性を訪れますが、ことごとく思うようにならないばかりか、しまいには老いた俳優犬マース(死んだまねもできる賢い犬だ)まで抱え込むことになります。

 ジェイクの行き当たりばったり的で、はちゃめちゃな冒険譚として文句なく面白い小説で、思わず笑ってしまう場面が多々ありました。
 ジェイクと関わる友人たちも、女性たちも皆個性派ぞろいで、とくに彼のかつての親友で、今は映画界の重鎮に成り上がったヒューゴが際立っています。彼もジェイク同様、世の常識にとらわれず、自身の価値観に従って行動する人物でした。ジェイクとヒューゴは、不可能愛の三角関係(ジェイクはA子を愛し、A子はヒューゴを愛し、ヒューゴはB子を愛し、B子はジェイクを愛している)の中でのっぴきならない状況にはまっているのでした。

 当初は他人への依存性が強く、計画性のまったくない怠け者として登場したジェイクですが、読み進むにつれ、単に仕事をしたくないということではなく、自らが欲しないことはたとえ生活の糧の為でも絶対にやらないという信念を持ち、決してあきらめない精神と楽天性を兼ね備えた人物像として次第に魅力的に現れてくる展開がとても快く感じました。
 
 "網"とは生を束縛するあらゆる事象を象徴している言葉だと思いますが、ジェイクは自分のほんとにやりたいことがきっとあるんだ、その他のことは何一つ本質的ではなく、そうした意味では金なんか自分にとって何の意味もないんだと考えます。

The business of my life lay elsewhere. There was a path which awaited me and which if I failed to take it would lie untrodden forever. How much longer would I delay? This was the sabstance and all other things were shadows, fit only to distract and deceive. What did I care for money? It was as nothing to me. In the light of that vision it shrivelled like autumn leaves, its gold turning to brown and crumbling away into dust.

 小説の中でジェイクはロンドン中を、そしてパリ祭に沸くパリの街をさまようことになりますが、ストリートの名前とかランドマークが克明に書き込まれているので、ロードノベルとしても楽しめる小説です。ロンドンやパリの市街地図を眺めながらジェイクの彷徨を追いながら読むのも楽しめると思います。


(次回紹介予定)The Sea, the Sea/海よ、海(1978) 
ブッカー賞 受賞作品
 翻訳本

 When Charles Arrowby, over sixty, a demi-god of the theatre - director, playwright and actor - retires from his glittering London world in order to 'abjure magic and become a hermit', it is to the sea that he turns. He hopes at least to escape from 'the women' - but unexpectedly meets one whom he loved long ago. His Buddhist cousin, James, also arrives. He is menaced by a monster from the deep. Charles finds his 'solitude' peopled by the drama of his own fantasies and obsessions.
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(関連著作)作家が過去を失うとき/Elegy for Iris(1999)ジョン・ベイリー著

私は今、受身のままでいようとつとめている。祝福のうちに、あるいは少なくとも長年敬われてきた日課に安らぎを求めようとしている。そのすべてから逃げ出す意味もないし、逃げる場所もない。昔、東洋のサマーラという町で「死」が、それを逃げようとした人を待ち伏せしていたというあの物語と同じように、結局、アルツハイマーが出迎えるだけだろう。

 夫であるジョン・ベイリーによる回想録です。、アルツハイマー症となった妻アイリスを看護する現在の生活、彼女との出会いから今に至るその時々の思い出が、感情を抑えたおだやかな筆致で綴られています。行間から、ジョンのアイリスへの愛情のこもったまなざしが感じられ、いわゆる暴露本とは一線を画すものです。続編の「愛がためされるとき」では、ジョン自身の子ども時代からアイリスに出会うまでの回想にも焦点が置かれています。
 彼がアイリスの異常に気づいたのは1994年、二人が招かれたイスラエルの大学での討論会で、アイリスが言葉がなかなか出てこないで、立ち往生してしまったときでした。アイリスの母もアルツハイマー症だったとのことなので、彼女の発症も遺伝によるものである可能性が大きいと思われます。

  ジョンがアイリスを初めて見かけたのは、彼がオックスフォード大学で学生の指導教官していた28歳の時で、当時34歳のアイリスは同大学の女子校の特別研究員として哲学を教えていました。自室の前を自転車に乗って通り過ぎたアイリスを見て、恋に落ちたとジョンは書いています。

 ウッドストック・ロードの光景をぼんやり眺めていたとき、自転車のレディ(私には若い娘というよりレディに映った)に気づき、だれだろう、いつかこの人と会える日がくるだろうかと考えた。たぶん私は恋に落ちたのだ。彼女の人生には何ひとつ起きていない、ただ自転車に乗って私が着くのを待っている・・・・・そんな一瞬の幻想に浸ったのは純粋な恋心のせいだった。過去も、知られざる現在もない女性。

 その後、ふたりは顔見知りとなり、ジョンが誘った大学のダンス・パーティーで意気投合します。彼にとってアイリスは理解不能な女性でした。友人は無数にいるように思え、恋多き女性でもあり、彼にセックスを教えてくれたのもアイリスでした。ふたりが結婚したのは、初めて会ってから3年近くたった1956年でした。

 こうして結婚生活が始まった。そして、孤独の喜びも。そこには矛盾は一つもなかった。わたしたちは完璧にうまが合った。相手に抱かれ、愛され、伴われながらもひとりきりでいること。心身ともに親密でありながら、接触そのもののように心がぬくもる孤独のやさしい存在を感じていた。

独立した精神が、互いの孤独を認め合いつつ親密な関係を保ち続けた40年にもわたる二人の生活は、理想的な結婚の一つの形であるように思えます。
この回想録から知ることのできるアイリスの興味深い面を挙げてみます。
  • 「指輪物語」と「源氏物語」がお気に入りだった。
  • 映画「アラビアのロレンス」のモデル、T.E.ロレンスと著書「知恵の七柱」に傾倒していた。
  • 絵画はアイリスにインスピレーションを与えた。彼女の小説にもっとも色濃く、はっきりと映されている絵はティツィアーノだった。
  • 魚が嫌い。
  • 上昇志向が全然ない。
  • ディケンズ、ドストエフスキー、カフカなどを愛読していたが、一方で単純素朴な大衆向けのラジオ・ドラマも好きだった。

(関連映画)アイリス/Iris(2001)
(監)リチャード・エア (演)ジュディ・デンチ(英国アカデミー賞 主演女優賞)、ジム・ブロードベント('02年アカデミー賞 助演男優賞)、ケイト・ウィンスレット

 アイリスの夫、ジョン・ベイリーの回想録をもとに映画化した作品です。
 '02年のアカデミー賞では、晩年の夫役のジム・ブロードベントが助演男優賞を受賞しましたが、主演女優賞、助演女優賞にもノミネートされていました。脚本・監督のリチャード・エアは、シェイクスピア劇などの舞台演出でも活躍しているとのことで、そういったこともうまく作用してでしょうが、現在・過去のアイリス夫妻を演じた俳優たちのすばらしい演技が光っている映画です。さらに、映像の美しさ、しっとりとした音楽もよかった。

 アイリスとジョン、青春時代の二人の出会いと恋愛、そして晩年のアイリスの発症前後の二人の日常を描いたシーンが交互に描かれていきます。若き日のアイリスの奔放ともいえる輝きに対比される、不治の病のために次第に精神の光が消え去っていく晩年のアイリスの姿は、観ているのが辛くなりますが、いたずらに感傷的にならず事実に即した演出は好ましいものでした。
 アイリスは当時の文学者の中でも、その明晰さで知られ、そんな彼女が一番大切にしていたであろう言葉が自分の中から次第に失われていくのを認識することが、彼女にとってどんなに耐え難い苦しみであったことか。そして、ようやくアイリスを自分のものだけにしたという感慨を抱き、いずれアルツハイマーがアイリスを自分の手の届かない世界に追いやってしまうことを知りつつも、何とか彼女に一文字でも書かせたいと願う夫ジョンの心境。
 いかに死んだかではなく、いかに生きたかが人生にとって真に大切なんだということを、あらためて気づかせてくれました。


参考Webサイト・資料
○ 国内サイト ○ 参考資料
  • アイリス・マードック/平井杏子
  • 全作品ガイド アイリス・マードックを読む /日本アイリスマードック学会

主要作品リスト  
  • Sartre, Romantic Rationalist/サルトル―ロマン的合理主義者(1953):哲学的著作
  • Under the Net/網の中(1954)
  • The Flight from the Enchanter/魅惑者から逃れて(1956)
  • The Sand castle/砂の城(1957)
  • Something Special(1957):短篇
  • The Bell/鐘(1958)
  • A Severed Head/切られた首(1961)
  • An Unofficial Rose/野ばら(1962)
  • The Unicorn/ユニコーン(1963)
  • The Italian Girl/イタリアの女(1964)
  • The Red and the Green/赤と緑(1965)
  • The Time of the Angels/天使たちの時(1966)
  • The Nice and the Good/愛の軌跡(1968)
  • Bruno's Dream/ブルーノーの夢(1969)
  • A Fairly Honourable Defeat/かなり名誉ある敗北(1970)
  • The Sovereignty of Good/善の至高性(1970):哲学的著作
  • An Accident Man(1971)
  • The Black Prince/ブラック・プリンス(1973)
  • The Servants and the Snow(1973):戯曲
  • The Sacred and Profane Love Machine/愛の機械(1974)
  • A Word Child/魔に憑かれて(1975)
  • Henry and Cato/勇気さえあったなら(1976)
  • The Fire and the Sun: Why Plato Banished the Artist/火と太陽―なぜプラトンは芸術家を追放したのか(1977):哲学的著作
  • The Sea, the Sea/海よ、海(1978)
  • A Year of Birds(1978):詩集
  • Nuns and Soldiers(1980)
  • Art and Eros(1980):戯曲
  • The Philosopher's Pupil(1983)
  • The Good Apprentice(1985)
  • The Book and the Brotherhood/本をめぐる輪舞の果てに(1988)
  • The Message to the Planet(1990)
  • The Green Knight(1994)
  • Jackson's Dilemma/ジャクソンのジレンマ(1995)

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