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映画監督
クシシュトフ・キェシロフスキ(1941−1996)
Krzysztof Kieslowski
  
ポーランドのワルシャワの生まれ。共産党政権下のポーランドを舞台に数多くのドキュメンタリー映画を製作し、長編第2作目となる「アマチュア」('79)でモスクワ映画祭グランプリを受賞。TVシリーズ「デカローグ」('88)を劇場公開用に再編集した「殺人に関する短いフィルム」('88)と「愛に関する短いフィルム」('88)が、国際映画祭で話題となり、さらに「ふたりのベロニカ」(‘91)でカンヌ映画祭国際批評家連盟賞を獲得し、ポーランドを代表する映像作家として脚光を浴びるようになった。「トリコロール」三部作('94)を発表後の1996年に55歳で持病の心臓病の為、急逝した。

誰の人生でも探求する価値があり、秘密と夢があると私は信じている。

僕はモラルには興味がないよ。興味があるのは美と感情だ。しかし、もっとも大事なのは愛だと思う。美というのは愛に備わっていてもいいが、万一なくとも構わない。愛情があれば、その人にとっては美しいわけなのだから。
/ キェシロフスキ(「キェシロフスキの世界」より)

以下を紹介しています(クリックでリンクします)。
ふたりのベロニカ(1991)
トリコロール「青の愛」(1993)
トリコロール「白の愛」(1994)
トリコロール「赤の愛」(1994)
愛に関する短いフィルム
デカローグ(1988)
ヘヴン(2002)
関連Webサイト
主要監督作品リスト

1. ふたりのベロニカ/La Double vie de Veronique(1991 仏・ポ)
(監)クシシュトフ・キェシロフスキ (演)イレーヌ・ジャコブ、フィリップ・ヴォルテール、サンドリーヌ・デュマ
(音)ズビグニェフ・プレイスネル
カンヌ映画祭 主演女優賞、国際批評家連盟賞

 ポーランドとフランスで生まれたふたりのベロニカをめぐる物語。ふたりは同日、同時刻に生まれ、一卵性双生児のごとく瓜ふたつで、音楽の才能やクセも心臓の病気を持っていることも同じだった。会ったことのない二人だが、お互いに相手の存在を漠然と感じているようだった。
 ポーランドのベロニカは、ピアノ科の学生でしたが、その美しい歌声を認められて、コンサートの独唱者に抜擢されます。そしてフランスのベロニカは小学校の音楽の教師で、子どもに合奏の指導をしています。ふたりが関わっている曲は同じもので、それは200年以上前のオランダの作曲家の作品であり(実際には音楽を担当したプレイスネルの作曲)、この崇高ながらノスタルジーを感じさせる音楽がこの映画の基調音として高くあるいは低く鳴っています。
 詩的で隠喩に満ちた美しい映画です。キェシロフスキは、ストーリーの展開よりも、ふたりのベロニカの内面の心の動きの描写に重きをおいていて、それも台詞よりも映像と音楽とによって彼女らの感情の震え、揺れを表現しようとしています。そして彼は "なぜ、どうして?"という観客の問いには答えず、ふたりのベロニカが互いの存在の予感に空間をはるか隔てながら触れ合う魂の交感を描いていきます。
 ベロニカを演じるイレーヌ・ジャコブは、繊細な情感を表現できる感性豊かな、この詩的な映画にふさわしい女優だと思います。とりわけポーランドのベロニカが降りだした雨に打たれながら歌う冒頭のシーン、それからコンサートで歌うシーンではプレイスネルの天上の音楽を背景に、天使の美しさを垣間見せてくれます。
 ガラス玉を通した風景、蝶に変身する人形劇のバレリーナ、ベロニカの部屋を舞う光、などストーリーを追うだけでは見えてこない精妙な"何か"に触れるため、繰り返し見る価値のある映画だと思います。


2. トリコロール「青の愛」/Trois couleurs: Bleu(1993 仏・ポ)
(監)クシシュトフ・キェシロフスキ (音)ズビグニエフ・プレイスネル (演)ジュリエット・ビノシュ
ヴェネチア国際映画祭 金獅賞、主演女優賞、撮影賞

 トリコロール三部作はフランス国旗の3色:青、白、赤のそれぞれが象徴する自由、平等、博愛をテーマにキェシロフスキが描いた三つの愛の映画であり、「青の愛」はその第1作目です。
 一家三人を乗せた車がスリップして田舎道の道路脇の樹木に激突し、夫と一人娘を失い、ジュリー(ジュリエット・ビノシュ)だけが重傷を負いながらも一命をとりとめます。彼女の夫は著名な作曲家で、欧州統合に向けた音楽を彼女の助力で仕上げていたところでしたが、ジュリーは喪失の悲しみと絶望から、スコアを破棄し、屋敷を引き払ってパリのアパートに移り住み、過去を断ち切り新しい生活をはじめようと決意します。
 予期せぬ形でジュリーに与えられた自由が彼女にもたらしたものは何であったのか。夫の協力者でジュリーを愛しているオリヴィエ、事故を目撃した少年、同じアパートに住む娼婦、路上で縦笛を吹く大道芸人、夫の愛人などとの関わり合いから彼女が見出したのは何であったのか。
 それは人間の絆の尊さの理解と、新しい愛による自らの再生であったのだと思います。
 青を基調にした映像がとても美しい映画です。ときおり挿入されるジュリーがプールで泳ぐシーンでは、プールの青い水が、深い悲しみに心を閉ざし人前では流すことのできない彼女の涙を象徴しているかのようでした。
 ジュリエット・ビノシュのクールな外見も青によく合っていました。「ふたりのベロニカ」同様、プレイスネルの音楽が大きな役割を果たしていて、ラストに奏される完成された荘重な愛のシンフォニーが印象的でした。
 その冒頭の歌詞から;

たとえ私が天使たちの言葉を話しても
愛がなければ それは空しいかぎり
ただ鳴り響く鐘にすぎない

 
CD 「Requiem for My Friend」
 (co)ヤチェク・カスプシク、シンフォニア・ヴァルソヴィア (ソプラノ)エルジビェタ・トヴァルニツカ 他

プレイスネルが、友キェシロフスキに捧げたレクイエムです(第1部)。音楽の基調は「ベロニカ」や「青の愛」で聴かれるものと同質の荘厳かつ感動的な作品となっています。ペルトの曲に比肩できる静けさと精神性を持った名曲だと思います。プレイスネルの音楽世界に浸りたい方におすすめです。

3. トリコロール「白の愛」/Trzy kolory: Bialy(1994 仏・ポ)
(監)クシシュトフ・キェシロフスキ (音)ズビグニエフ・プレイスネル
(演)ズビグニエフ・ザマホフスキ、ジュリー・デルビー
ベルリン国際映画祭 銀熊賞(監督賞)受賞

 3部作の2作目。白は"平等"を象徴していて、この映画では、男と女の間の愛において"平等"が成立し得るのかどうかが主要テーマとなっていると考えられます。
 パリで美容院を経営するポーランド人のカルロは、愛するドミニクを妻としていたが、性的不能のため一方的に離婚裁判を起こされ、財産を失いトランクひとつで言葉の通じないパリの町に放り出されてしまいます。同じポーランド人のミコワイに助けられ、ひどい目に遭いながらも故郷に戻ったカルロは、ドミニクに対する周到な復讐計画を立て、実行に移そうとします。

 彼のドミニクに対する崇拝とも形容できる愛は、復讐という形に屈折しながらも最後まで不変です。一方のドミニクですが、彼女もカルロを実は深く愛していたことがやがて判明します。その故に、ふたりはめでたく愛を確かめ合うに至るのですが、このあたりの展開を無理なく受容できるかどうかが、この映画の評価と大きく関わってくるような気がします。僕はといえば、違和感を感じざるを得なかったんですが.... 愛とは所詮不条理なものなんだろうけど。
 ともあれラストシーンでは、カルロとドミニクは、ついに愛の平等を実現できたようです。
 前作の「青の愛」でもそうでしたが、「白」を基調とした映像が見所となっています:白銅貨、光線、雪景色、ドミニクの白い肌・・・
 

4. トリコロール「赤の愛」/Trois couleurs: Rouge(1994 仏・ポ)
(監)クシシュトフ・キェシロフスキ (音)ズビグニエフ・プレイスネル
(演)イレーヌ・ジャコブ、ジャン・ルイ・トランティニャン

 キェシロフスキ監督の遺作となったトリコロール3部作最後の作品です。"赤"は"博愛"を象徴しています。
 主人公は、スイスのジュネーブに住み、ファッションモデルの仕事もしている大学生のバランティーヌ(イレーヌ・ジャコブ)で、彼女は車の運転中に犬をはねてしまい、飼い主のところへ犬を届けに行きます。飼い主は初老の一人暮らしの退官判事(ジャン・ルイ・トランティニャン)で、彼が電話の盗聴をしていることを知り、卑劣な行為だと非難するバランティーヌですが、彼に次第にひかれていきます。一方、世界と自分自身への不信にとらわれた彼の孤独な心も彼女の無垢な博愛により癒されていくようです。
 "博愛"というテーマ、そして赤が基調の映像となっていることもあり、前2作と比較して全体的に暖かい印象を受ける作品となっています。そして、愛の賛歌としての3部作のラストが、全3作の主人公達が一堂に会するエピソードにより、締めくくられているのも興味深いところです。この最後の場面で『白の愛』でのカルロとドミニクの愛がハッピーエンドで終った事が確認できホッとしました。
 それにしても青、白、赤を基調とした映像により、3部作それぞれの愛のドラマを美しく描き分けたキェシロフスキの演出力はたいしたものです。55歳での早すぎた死が惜しまれます。
 

5.愛に関する短いフィルム(1989・ポ)

 TVドラマ・シリーズのデカローグ第6話「ある愛に関する物語 (あなたは姦淫してはならない)」の劇場映画版です。TVドラマ版より約30分ほど長くなっていて、編集が異なり、ラストも違ったものとなっています。

 孤児院で育ち、今は郵便局に勤める19歳の内気な青年トメクは、団地の向かい側の部屋に一人で住む年上の女性マグダに恋し、毎晩望遠鏡で彼女の部屋を覗いていた。
マグダは画家で、彼女の部屋にはしばしば男が訪ねて来た。トメクは彼女の姿を見るために、ニセの為替通知書を郵便ポストに入れ、彼女が郵便局に来るように仕向けたり、牛乳配達に応募して毎朝彼女の部屋に牛乳を届けていた。郵便局でニセの為替通知書をめぐるトラブルが起きたとき、トメクはマグダにすべてを告白した。初めは驚き、怒ったマグダだったが、トメクの自分を想う一途の心情に打たれ、トメクに関心を抱くようになり、ある日二人はレストランで会い、そしてトメクは初めてマグダの部屋を訪れるが、彼女に誘惑されトメクは部屋を飛び出してしまう。

 孤児であったトメクがマグダに求めた愛の形は、男女の愛というより母の愛に近いようでした。マグダへの愛を神聖なものとして考えるトメクは、マグダに挑発された時の自分の身体の反応を、マグダへの愛を汚すものとして許せなかったのだと思います。一方、マグダはトメクの心を傷つけてしまったことを恥じ、忘れていた愛の重みに気付くことになります。
 登場人物が少ないこと、ほとんどのシーンが二つの部屋に限られ、しかも時間帯は夜と早朝であり、バックに流れるプレイスネルの音楽もピアノ、ギター、チェロの独奏によるもので、全体的にとても静かな印象を受ける画面です。
 ラストは、マグダがトメクの部屋から望遠鏡で自分の部屋を覗く場面となっています。マグダがそこに見たイメージ、テーブルにうつ伏して泣いている自分を慰めようと肩に手をかけるトメクの姿、それは未来での二人の愛の成就を暗示しているようでした。
 

6.デカローグ/The Decalogue (1988 ポ)
(監)クシシュトフ・キェシロフスキ (音)ズビグニエフ・プレイスネル 
'89ヴェネチア映画祭 国際批評家連盟賞

 「デカローグ」の仕事をしながら考えていたのは、こんなことだ。本質的に何が正しくて、何が誤っているのか? 何が虚偽で、何が真実なのか? 何が誠実で、何が不誠実なのか? それに対して、人はどのような態度をとったらよいのだろうか?
「キェシロフスキの世界」/キェシロフスキ 

 キェシロフスキが国際的に認められる端緒になったTVドラマ・シリーズです。
 このシリーズは旧約聖書の十戒を副題に持つ、それぞれが独立した10話(各約1時間)からなり、ワルシャワ郊外の団地に暮らす人々を主人公にして、愛、孤独、運命、希望など人間の生の諸相を描いています。このあとに発表されたトリコロール3部作同様、各ストーリーの登場人物が、別のドラマを横切ったりと、相互の物語に連関を持たせた演出となっているようです。

第1話:ある運命に関する物語 (あなたは私の他になにものをも神としてはならない)

 暗い寒空のワルシャワの冬。大学で教えている父親と(言語学者のようだ)、小学生の息子の二人が団地で暮している。少年は父親に教えてもらってだろうか、数学とパソコンに精通していた。ある日、道端で犬の死骸を見て衝撃を受けた少年は父親に向かい「なぜ人は死ぬの? 死ぬってどういうことなの? 何が残るの?」と尋ねるが、徹底した合理主義者で神を信じない父親は即物的な答えを返すだけだった。
 少年が父からのクリスマス・プレゼントのスケート靴を履いて凍結した池で滑っている時に、氷が割れる事故が起きる。前夜、パソコンで氷の厚さを計算し、絶対の安全を確信していたのに...

 運命は不意打ちで、容赦が無く、少年の父親が絶対の信頼を置く科学の論理が通用しないが故に、当事者にとって理不尽なものとなります。かつては論理を神とした少年の父親が運命の前に跪(ひざまず)き、その後彼が新しい神を見つけることができたかどうかは描かれていませんが、同じように少年に「神って何?」と問われたクリスチャンの叔母が、彼を抱きしめて「何を感じる?」と聞く場面、そして「人生てプレゼントよ、贈り物なの」と語りかける場面ではキェシロフスキは、運命を乗り越えるものとして、愛の可能性を示唆しているのだと思います。
 雪の積もった岸辺でひとり焚き火で暖をとる男の映像が冒頭場面を始めとして幾度が挿入されますが、このドラマの中でただひとり登場人物たちの運命の行く末を見通しているかのようなこの男の存在が、この作品が人間のドラマだけにとどまらず、神をも含めたドラマなのだというキェシロフスキの意図を示しているのではないかと思われます。
 ポーランドのベロニカがそうだったように、きれいな目をした少年の優しい表情は天使のようです。そして同じように映像が美しい作品です。

第2話:ある選択に関する物語 (あなたはあなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない)

 団地に住むドロタはオーケストラのヴァイオリニストで、彼女には音楽家の愛人がいた。愛人は夫の親友であり、しかもドロタは愛人の子供を身ごもっていた。彼女の夫は重病で入院していて、明日をも知れぬ状態だったが、もし夫が助かるのであれば、子供を堕ろさなければならないと考えた彼女は、団地の同じ棟の階下に一人で住んでいる夫の主治医である老医師に助かる見込みについて尋ねるが、彼は断言はできないと応じない。しかし、執拗に食い下がるドロタに対し、彼はひとつの答えを出した。

 重い調子の展開ですが、最後はハッピー・エンドとなるので救われます。
 ドロタと老医師はそれぞれ二つに一つの選択を迫られますが、いずれも人の生死に関わる事柄であって、人間に他の人間の生死を決定する権利があるのか、という事がこのドラマのテーマとなっているのだと思います。勿論、そんな権利はないんだということから導かれる結末が皮肉なものとなるのは、これは当然のことなのかもしれません。
 戦争の爆撃で妻子を亡くしている老医師と、二人の男を同時に愛しているドロタの階を隔てたそれぞれの孤独な暮らしぶりが、ていねいに描写されているのが印象的でした。

第3話:あるクリスマスイヴに関する物語 (安息日を覚えてこれを聖とせよ)

 クリスマスイヴの夜、タクシー・ドライバーのヤヌシュはサンタクロースの衣裳を着て、家族の住むアパートの戸口に現れ、彼の娘と息子にプレゼントを渡した。赤い車に乗った女がじっとその様子を見ていた。その後、家族そろって行ったミサにも女は来ていた。家に戻ると女からの電話があり、ヤヌシュは外に出て女と会った。女はかつてヤヌシュの愛人だったエヴァで、一緒に暮していたエドヴァルドが朝アパートを出たきり帰ってこないので一緒に捜して欲しいと言った。エドヴァルドは彼がエヴァと別れるきっかけとなった男だった。妻に車が盗まれたと言い訳を言い、ヤヌシュはエヴァを車に乗せ、人と車の絶えたイヴの夜の町を、エドヴァルドの消息を求めて、救急センターや病院や駅を尋ねて回るがエドヴァルドは見つからなかった。

 妻が盗難届を出した為に手配車として警察に追われる羽目になり、深夜の暗く閑散とした雪の残る道路でのカーチェイスは寒々とした画面で、それはエヴァの内面の孤独と絶望を映しているようでした。エヴァがイヴの夜にヤヌシュに託した一つの賭けが、たとえ結果として吉と出たとしても、エヴァの孤独を救うことにはならないことが切ない。

第4話:ある父と娘に関する物語 (あなたの父と母を敬え)

 20歳になる演劇大学の学生アンカの母は、彼女が生まれてから5日後に死に、以来ずっと父ミハウと二人で暮らしていた。アンカは、引き出しの中に父の筆跡で"私の死後に開封すること"と書かれた封筒を見つけた。父は、アンカにわざとこの封筒を見つけさせるように置いた形跡があった。父の出張を空港に見送りに行き家に戻ったアンカは、ためらった後、封筒を開封した。中には別の封筒があり、表には"私の娘アンカに"と記されていた。母の遺書だった。遺書に書かれていること、それは自分の出生にからむことに違いないとアンカは確信した。封筒を開けて真実を知るべきか否か、アンカが下した決断とは....
 アンカはミハウを父として以上に男性として愛している自分に気づいていて、ミハウもアンカの男友達に対する嫉妬が父としてのものなのか分らなくなっていました。ミハウ自身も亡き妻が娘宛てに書いた手紙の内容は知らず、アンカが実の娘であるかどうかを知ることが、これからの二人の関係を決定づけてしまうことを恐れながらも、その判断をアンカにゆだねたのだと思います。出張から戻ったミハウを空港に迎えたアンカはミハウに母の遺書を読んだと告げます。ミハウはアンカの頬を打ちます。
 家に戻ってからのミハウとアンカとの緊張感ある対話が、このドラマの見どころとなっています。

「ぶったのは・・・・・お前があの手紙を読んだからさ ・・・・・反対に、読んでもらいたかったんだ ・・・・・ママのために ・・・・・でも、ママは私に言わなかったことをお前に書いた ・・・・・ぶったのは、お前を愛しているからさ。たとえ実の娘じゃなくても ・・・・・お前が実の娘だったら、あるいは、手紙を読まないでいてくれたら、すべてが今とは違ったようになっていたかも知れない ・・・・・」
小説「デカローグ」/K・キェシロフスキ、K・ピェシェヴィチ(ハヤカワ文庫 '96年初版)

 翌朝アンカは、ミハウが家を出て行くのを見て、家を飛び出して彼に追いつき、隠していたもう一つの事実を明らかにします。

第5話:ある殺人に関する物語 (あなたはなにものも殺してはならない)

 内に鬱屈したものを抱えている青年ヤッツェックは、中年のタクシー運転手を殺し金を奪いますが、結局逮捕され、そして死刑の判決を受け、刑が執行されます。感傷を排した非情なカメラの視点で、殺伐とした殺しの場面と死刑執行の場面をリアルに描いたドラマです。 
 ヤッツェックがなぜ殺人を犯さなければならなかったのかの説明はなく、ただ彼には5年前にトラクターにひかれて死んた妹がいて、「妹が生きていたなら、こうはならなかった」と弁護士に告白していましたが、この事件を担当した弁護士は、まだ新米の若い弁護士で、ヤッツェックの死刑判決を割り切れない気持で受けとめていました。緑色を帯びた色調の画面、寂しげな音楽はヤッツェックの孤独・絶望感とタクシー運転手の内面の空虚さ、弁護士の敗北感を象徴しているようでした。

第6話:ある愛に関する物語 (あなたは姦淫してはならない)

 映画編集版「愛に関する短いフィルム」と大きく異なるのはラストの扱いのみで、このTV版では、トメクを訪ね郵便局に行ったマグダに対し、彼が「もう覗かない」ときっぱり答え、マグダが悲しげに微笑むシーンで終わっています。映画とは逆に、ここでは二人の愛の可能性は否定されているようです。TV版のほうがドラマの帰結として現実的だろうなという気がするけど、心情的には映画版の余韻を残すエンディングを支持したいところです。心に抱く愛のビジョンはそれぞれ異なり、たとえどんなに愛を希求している二人でも、求め合うものが一致することはないのだろうけど、虚構の中だけでも愛の成就の可能性は残しておいて欲しいから。

○第7話:ある告白に関する物語 (あなたは盗みをしてはならない)
○第8話:ある過去に関する物語 (あなたは隣人について、偽証してはならない)
○第9話:ある孤独に関する物語 (あなたは他人の妻を取ってはならない )
○第10話:ある希望に関する物語 (あなたは隣人の家をむさぼってはならない)
 

7. ヘヴン/Heaven(2002 米・英・仏・伊・独)
(監)トム・ティクヴァ (脚)クシシュトフ・キェシロフスキ、クシシュトフ・ピエシェヴィッチ
(演)ケイト・ブランシェット、ジョバンニ・リビージ (音)アルヴォ・ペルト

 キェシロフスキは、"Heaven、Hell、Purgatory(天国、地獄、煉獄)"と題した三部作を考えていて、今回トム・ティクヴァにより映画化された本作は、その中でキェシロフスキが唯一生前に書き上げていたシナリオによるものです。
 29歳の女性英語教師フィリッパは、教え子の生徒達に麻薬を売りさばき、彼らを破滅に導いた男を殺そうと決意し、男のオフィスに時限爆弾を仕掛けますが失敗し、無関係の親子を殺してしまう結果となります。逮捕されたフィリッパは、取調室での尋問に際し、母国語である英語以外で話すことを拒否した為、21歳の刑務官フィリッポが通訳を担当することになります。フィリッポは、一目見てフィリッパを恋するようになり、彼の手はずでフィリッパは脱走を図ります。
 同じ日に生まれ、同じ響きの名を持つフィリッパとフィリッポ、男女の違いはあるものの、ここには「ふたりのベロニカ」の明らかな反映が見られます。「ふたりのベロニカ」では完結されなかった、この世界に必ずもう一人いる自分との運命的な出会いと、二人で高く高くヘヴンまで上昇することによって成就される愛を描ききることがキェシロフスキの切なる願いであったのだと思います。

 全篇に流れるピアノ曲は、ペルトの「アリーナのために」です。静謐でありながら張りつめた厳しさを秘めた音楽は、キェシロフスキの映画音楽を担当したプレイスネルの音楽と同質のものです。


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主要監督作品:1979年以降 原題/邦題・英題(公開年)を表示

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