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1.センセイの鞄(2001) |
文春文庫 '01年 谷崎潤一郎賞 受賞
センセイ、とつぶやいた。センセイ、帰り道がわかりません。
しかしセンセイはいなかった。この夜の、どこにセンセイはいるのだろう。 ・・・・
センセイとは、さほど頻繁に会わない。恋人でもないのだから、それが道理だ。会わないときも、センセイは遠くならない。センセイはいつだってセンセイだ。この夜のどこかに、必ずいる。
心にせつなく悲しく、そしてほのかに暖かい恋愛小説です。
語り手の30代後半のツキコさんと、30と少し年の離れた高校のときの恩師であるセンセイとのあわあわと、そして色濃く過ごした日々。
センセイとわたしは居酒屋での顔なじみだったが、ある時センセイに声をかけられ、名前がわからないのをごまかすために、「センセイ」と答えたのだ。以来センセイはセンセイになった。
時々一緒に飲むようになり、わたしはセンセイを好きになり、ふたりで旅行したり、パチンコをやったり、きのこ狩りに行ったりするが何かが起こるわけでもない。でもわたしのセンセイへの恋心はつのるばかり。
居酒屋が舞台となっていることもあって、飲んだり食べたりする場面が多くて、それもじつにおいしそう。
川上さんの作品は、『蛇を踏む』、『いとしい』、『椰子・椰子(やし)』と読んでいますが、いずれも日常世界とは別の異界との交流が描かれていました。この小説では、わたしもセンセイも生身の人間であり、これらの作品に比べるとはるかにリアリティがある世界だけど、センセイはやはり半分くらい異界(むこう側)の人のような気がしてなりません。はかない夢のようなセンセイとの恋愛が不自然と感じることなく心に落ち着くのは、そのせいなのではないかな。
「センセイ、センセイが今すぐ死んじゃっても、わたし、いいんです。我慢します」そう言いながら、わたしはセンセイの胸に顔を押しつけた。
「今すぐは、死にませんよ」センセイはわたしを抱き寄せたまま、答える。声が、くぐもっている。電話を通して聞いたセンセイの声そっくりだった。くぐもった、甘い声。
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2.神様(1998):短篇集 |
中公文庫 パスカル短篇文学新人賞
せつなくて、かなしくて、おかしくて、こわくて・・・
305号室の礼儀正しいくまさんと川原で散歩したいよう
「ぼくだめなのよ ぼくいろいろだめなの」て言ってる引っ込み思案の梨食いにさわりたいよう
死んだ叔父さんと野原で会って話がしたいよう
河童といたしたいよう
コスミスミコの壺が欲しいよう
304号室のえび男くんや人魚や・・・
やっぱりせつないよう
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3.蛇を踏む:短篇集 |
文春文庫 '96年芥川賞受賞作品
自分の書く小説を、わたしはひそかに「うそばなし」と呼んでいます。(中略)
「うそ」の国は、「ほんと」の国のすぐそばにあって、ところどころには「ほんと」の国と重なっているぶぶんもあります。「うそ」の国は、入り口が狭くて、でも、奥行きはあんがい広いのです。
「蛇を踏む」あとがき/ 川上弘美
「蛇を踏む」には表題作を含む中篇3篇が収録されていますが、いずれも日常的世界から逸脱し、変容し続ける「うそ」の世界の中での出来事を描写しています。
蛇を踏んでしまってから蛇に気がついた。秋の蛇なので動きが遅かったのか。普通の蛇ならば踏まれまい。
蛇は柔らかく、踏んでも踏んでもきりがない感じだった。
「踏まれたらおしまいですね」と、そのうちに蛇が言い、それからどろりと溶けて形を失った。煙のような靄(もや)のような曖昧なものが少しの間たちこめ、もう一度蛇の声で「おしまいですね」と言ってから人間のかたちが現れた。 「蛇を踏む」
このごろずいぶん消える。
いちばん最近に消えたのが上の兄で、消えてから2週間になる。
消えている間どうしているかというと、しかとは判らぬがついそこらで動き回っているらしいことは、気配から感じられる。 「消える」
背中が痒いと思ったら、夜が少しばかり食い込んでいるのだった。
まだ黄昏時なのだが、背中のあたりに暗がりが集まってしまったらしく、密度が濃くなったその暗がりの塊が、背中に接着し、接着面の一部が食い込んでいるのだった。 「惜夜記」
いずれも、物語の始めのほうの文章ですが(「消える」と「惜夜記」では冒頭)、読者は、唐突に人間と人間以外の生物、生物と無生物との境界が溶解している川上ワールド(「うそ」の国)に投げ込まれることになります。「蛇を踏む」では、"私"は、女の人に変身して家に居ついてしまった蛇から、蛇の世界に来るようにと執拗に誘惑されます。さらに物語が進んでくると、蛇にまとわりつかれているのは"私"だけでないこともわかってきます。どうもこの世界は蛇と人間との共生により成り立っているみたいだ....などと考えてみたりするけど、あまり考えてもしょうがないみたいなところがあります。
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4.おめでとう(2000) |
新潮文庫
寒いです。おめでとう。あなたがすきです。つぎに会えるのは、いつでしょうか。
おしまいに収録された「おめでとう」の最後のことばだけど、読みながらうるうるになったのは、としのせいだけではないような気がするのだ。12篇の愛のストーリーが語られていて、みなハッピーエンディングというわけではないのだけれど、愛の情景はそれぞれあったかい感じでほんわかして、みだらなんだけどいやらしくなくて、とてもせつない気持になるのはどうしてだろう。
「センセイの鞄」とかもそうだったけど、おいしそうな場面がずいぶんとあった。あいすることと食べることが生きていくことのエッセンスなのだなあ。しみじみ。
ストーリーのいくつかを紹介してみよう。
○「いまだ覚めず」
年の暮れに10年ぶりにタマヨさんに会いに行ったあたしは、かつてタマヨさんとあいしあう仲だった。いまでもあたしはタマヨさんがだいすきだということがわかったから会いに行ったのだった。あたしはおみやげに小田原で買った五本の笹かまぼこのうち三本を電車の中で食べてしまう。
○「春の虫」
わたしは、前に勤めていた会社の同僚だったショウコさんと山あいの温泉に行った。行きの電車のなかでショウコさん手作りの豪華弁当(赤飯のおむすび、ふき、海老フライ、つけもの数種類、ほうれん草のごまよごし、焼き豚、豆)をきれいに食べつくした。旅館でお風呂あがりになんとなく抱きあってくちびるをあわせてしまう。
「おまんじゅう、おいしかったよ、ヨーコさんも食べればよかったのに」ショウコさんは言い、目を閉じた。
ショウコさんのくちびるに自分のくちびるをほんのり重ね、重ねたままで、
「ショウコさん」と言ってみた。ショウコさんも同じように、
「ヨーコさん」と、くちびるをあわせたまま、言った。
○「夜の子供」
私は、20代の終わりの二年の間同棲していた竹雄と画廊で5年ぶりくらいに再会した。ふたりで野球のナイター見物に行き、竹雄からもらったイチゴミルクを食べた。試合が終わってもふたりはいつまでも座ったままだった。
「朝に生まれたから、しあわせだな、私」
「俺は、夜に生まれたから、そんなにしあわせじゃないかもしれない」
「朝の子供も、夜の子供も、だれだってちょっとはあしあわせだよ」
「やがて宇宙が終わっても?」
「うん」
○「冬一日」
私もトキタさんも家庭を持つ身で、だから会えるのは昼間の1時間半だった。いつもは喫茶店で待ち合わせていつものホテルに行くのだけど、年の暮れにトキタさんの弟が実家に帰り留守のアパートの部屋で、二人で鴨鍋をつつき、赤ワインを飲んだ。
「あのさ、俺さ、百五十年生きることにした」突然トキタさんが言った。
「百五十年?」
「そのくらい生きてればさ、あなたといつも一緒にいられる機会もくるだろうしさ」
○「川」
わたしと一朗は、お弁当を持って河原に散歩に出かけた。おでんを食べて、たこやきを食べて、ビールを飲んで、お酒を飲んで、またビールを飲んだ。
「一郎、こういうときがまた来るかな」
「来るよ、二人で一緒にいれば、何回でも来るよ」
「二人で、一緒に、いられるかなあ」
「いられるよ」
「ほんとに?」
「ほんとにさ、ほんとだからさ、もっとちゃんと鼻かみな」
「うん」
○「冷たいのがすき」
ぼくと章子とは六年間続いている。ぼくが四十五歳、章子が三十五歳のときからだ。僕には家族があるが子供が大きいこともあって、一年目からクリスマスイヴは章子と過ごしていた。クリスマスイヴには、おそば屋かうなぎ屋に行くのが決まりになっていた。
僕たちは人生の半ばを過ぎたあたりにいる。僕たちはよるべない。僕たちはときどき嘘をつく。僕たちは少しさみしい。僕たちはよく笑う。
僕たちのシーツは、冷たい。
○「おめでとう」
西暦三千年一月一日のわたしたちへのことば。
おめでとう、とあなたは言いました。おめでとう。まねして言いました。それからまた少しぎゅっとしました。
忘れないでいよう、とあなたが言いました。何を、と聞きました。今のことを。今までのことを。これからのことを。あなたは言いました。忘れないのはむずかしいけれど、忘れないようにしようとわたしも思いました。
寒いです。おめでとう。あなたがすきです。つぎに会えるのは、いつでしょうか。
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5.ニシノユキヒコの恋と冒険(2003) |
新潮文庫
生きて、誰かを愛することができただろうか。
とめどないこの世界の中で、自分の居場所をみつけることが、できたのだろうか?
ニシノユキヒコの中学生のときから50代半ばでの死に至るまでの恋愛遍歴が、彼と関わった女性たちの視点から描かれています。現代の光源氏ともいうべき、もてもてのニシノ君と10人の女性との恋は、いずれも実らないものでしたが、どの女性からも恨まれることなく、別れた後も懐かしさをもって振り返られています。それは、ニシノ君と女性たちの恋が、長くて半年、短くて2週間ほどしか続かず、ほとんどの場合、最終的に女の子がニシノ君を「捨てる」形で終わりを告げたからでした。ニシノ君を愛した女性は、彼が常に優しくて恋人として完璧だけれど、本当には自分を愛していないことにやがて気づき、そうしたニシノ君の得体のなさにとまどい、理解できなくて、結局離れてしまうという結果になるようでした。
女性たちの観たニシノ像とは、たとえば、
西野君のまわりには、不思議な空気が漂っている。クラスの子たちのまわりには決してない空気。押せば押すほど、深みにはまりこんでゆく。いくら押しても、空気の向こうにある西野君には決して届かないのだ。
(しおり/14歳・中学校の同級生)
どこから見ても、ユキヒコはもうしぶんなかった。もうしぶんなさすぎて、つまらないくらい。けれど、ユキヒコは、凶暴だった。
ユキヒコはこわがりなのだ。
(真奈美/20代・会社の直属の上司)
礼儀正しく、クールにふるまっているけれど、あんがい勤勉で努力家の西野君。
笑顔のいい、清潔だし、ほんの少し陰影もあるし、話にも厭味がない。女の子一般にとって適切な感じの男の子。
(例子/30代・小説家)
するりと女の気分の中にすべりこんでくる。女自身も知らない女の望みを、いつの間にか女の奥からすくいあげて、かなえてやる男。
(早百合/50代・専業主婦)
西野さんは夢を見ているみたいにみえる。何の夢だか知らないけれど。
(愛/18歳・大学生)
西野君は冷たい。そして、その冷たさは、あたたかな裏打ちを持っている。
(のぞみ/大学3年生)
ニシノ君に関わった女性たちの証言からも窺えるように、ニシノ君は実体が曖昧模糊としていて、つかみどころがない感じです。それに、ニシノ君自身、「僕はどうして女のひとを愛せないんだろう」、「どうして僕はきちんとひとを愛せないんだろう」と本気で女性を愛せないことを不思議がっているようでもあります。
読み進むうちに、ニシノ君には真に愛した一人の女性がいて、彼女はニシノ君が高校生のときにこの世を去り、以来ニシノ君は彼女の面影を女性に求め、しかし得られず、結果として次から次へと新たな女性遍歴を重ねているのではないかということが見えてきますが、そういった小説上の展開は別にして、顔がよく見えないニシノ君よりも、それぞれの章の語り手である10人の女性たちのほうが、ずっと実在感があり、かつ魅力的に思えます。
たとえば、夫と小さな子供がいる身で、ひとまわりも年上のニシノ君を愛した夏美や、空き地に誕生日の14本のろうそくとか、死んだ金魚などを埋める、父と二人暮しの中学生のしおりや、ニシノ君に会った瞬間からくるおしく熱烈な恋をした会社の直属の上司だった真奈美などなど。
章ごとに語り手の女性は変わっても、それぞれに共通する基調は、切なさ、さみしさであるとか、はかなさとか甘美さとかであり、それらは「センセイの鞄」を始めとする川上さんの作品に本質的に備わっているものと同じです。
こうした基調は、最終章でニシノ君の高校の先輩だった大学生、のぞみが彼に語った、この世界のとめどなさ、とりとめのなさと無関係ではないように思います。のぞみは、その理由として、最初にビッグバンがあって以来、この宇宙が広がり続けているから、そして広がっていく宇宙の外側は全くの空虚だから、しょうがないの、と言っていますが、案外これは理学部出身の川上さんの世界観でもあるのかなという気がしました。実際のところはどうなんだろう。
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6.光ってみえるもの、あれは(2003) |
中公文庫
高校1年生の江戸翠(みどり)君は、フリーライターで未婚の母の愛子さん、それに祖母の匡(まさ)子さんと三人で暮していて、遺伝子上の父親であるらしいフリーアルバイターの大鳥さんも時々ふらりと家に訪ねて来ます。翠君には同じクラスにガールフレンドの平山水絵がいて、親友の花田もいます。その他、母の編集担当者兼恋人の佐藤さん、担任の北川(キタガー)先生が主要登場人物です。
セックスをして、うろうろ生きて。で、それで?
僕はしょっちゅう、そんなことを思ってしまう。思ったとたんに、しまった、と舌打ちする。まったくもって、僕って奴は、ナイーブだ。
ああ、やっぱり僕は早く大人になりたい。僕はつぶやく。大人になって自由になりたい。
けれどよく考えてみれば、今の僕の状態こそが実は自由な状態なのかもしれない。自由とは、なんとよるべないものなんだろう。自由とは、なんとこころぼそいものなんだろう。
翠君は高校生にしては物事を達観しすぎているような気がして、だからなのか妙に醒めているところがあって、平山水絵からも、「翠はつめたいよ」と言われてしまいますが、小さいときから祖母や母親や大鳥さんやらを始めとする個性的な面々に囲まれていると、そうなってもおかしくないのかもしれません。
個性的といえば、親友の花田君のセーラー服での登校騒動というのがあって、吉本ばななの「ムーンライト・シャドウ」では、恋人を事故で亡くした高校生が、彼女の形見となったセーラー服を着て登校していたけど、花田君はというと、「このままずるずるとシミシミ状態にひたるのは、マズイことなんじゃないか」と考えた末の、なにか哲学的な動機によっての行動でした。いかにもカワカミ小説的な花田君ではあります。
セーラー服騒動が一段落した後、翠君と花田君は、長崎の平戸諸島の無人島に行き、そこで二人は、少年からおとなへと脱皮するためのイニシエーション(通過儀礼)とも考えられる出来事を経験することになります。
この作品と同じく男子高校生の一人称という語り口の「赤頭巾ちゃん気をつけて」(作者の庄司薫さんは、ピアニスト中村紘子さんの旦那さん)とでは、薫君(こちらはエリート校の三年生)と翠君を取り巻く環境がまるで違うけれど、薫君がやはりいろんな経験を経て得た認識は、小さい頃からのガールフレンドの由実をしっかり守れる男になろうということだったけど、翠君もきっとそうなのだろうと思います。
ぼくは海のような男になろう、あの大きな大きなそしてやさしい海のような男に。そのなかでは、この由実のやつがもうなにも気をつかったり心配したり嵐を恐れたりなんかしないで、無邪気なお魚みたいに楽しく泳いだりはしゃいだり暴れたりできるような、そんな大きくて深くてやさしい海のような男になろう。ぼくは森のような男になろう、・・・
「赤頭巾ちゃん気をつけて」/庄司薫
江戸家のメンバー各人は、家族としての役割意識がわりと希薄で(極めつけは、法的家族であったことすらない大鳥さん)、だから家族の絆は、一見ゆるゆるのようではあるけど、それぞれ個人としての生きかたを尊重しあっていて、だからこそなんだろうけど、江戸家の脱家族的家族の日常風景は、風通しがよくて気持がいいです。「センセイの鞄」が、カワカミ的究極の恋愛小説であるとするなら、こちらは同じくカワカミ的究極の家族小説と言えるのではないかと思います。
各章のタイトルが、古今東西の詩や歌に因(ちな)んでいて、たとえば「夜になると鱒は・・・」はレイモンド・カーヴァーの、「偶作」はジャン・コクトウの、そして「北の海」は中原中也の詩のタイトルであるとか、そんな趣向も興味深いです。
偶作/ジャン・コクトウ
君の名を彫り給え
やがて天までとどくほど大きく育つ木の幹に。
大理石と較(くら)べたら立木の方が得なんだ。
彫りつけられた君の名も一緒に大きくなって行く。
(訳・堀口大學「コクトー詩集」/新潮文庫)
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7.古道具 中野商店(2005) |
新潮文庫
ヒトミさん、おれ、なんか下手で、すいません。タケオが小さな声で言った。
下手って、なにが。
なにもかも。
そうでもないよ、わたしだって、下手だし。
そうすか。あの。タケオは珍しくわたしの目をまっすぐに見ながら、言った。
ヒトミさんも、生きてくのとか、苦手すか。
中野商店は東京の西の近郊にある古道具屋で、主人の中野さんと姉マサヨさん、それに店員のヒトミとタケオの4人で営まれています。
店の主人の中野さんは40代終わりから50代初めくらいで、やせていて髭をはやしていてニットの帽子をかぶっています。数年前に3回目の結婚をしてますが、サキ子さんという愛人がいるという、少々女癖が悪いけど飄々として憎めない人物。中野さんの姉のマサヨさんは50代半ばの独身で、創作人形や染め物の個展を開いたり、店番を手伝ったりしています。こちらにもちゃんと愛人がいるようです。
この小説は、店番のアルバイトをしているヒトミの一人称で語られていますが、ヒトミの人物像を一言で表すと、”マイペース”。おそらく作者の意識に近い造形なんだろうと思います。
タケオは、ヒトミと同じくバイトの店員で、古道具の出物の引き取り要員で、口が重くて、いつも動作がギクシャクしています。とても女の子にもてそうでないタイプだけど、案の定、付き合っていた彼女に振られています。
ストーリーは、ヒトミとタケオの恋愛模様が主軸で進行するものの、不器用な二人の仲は互いに意識し合うばかりでなかなか進まなくて、脇役の中野さんやマサヨさんやらサキ子さんらの中年組のエピソードのほうがよっぽど華やかです。
客観的にみると結構どろどろした男女関係を描いているけれど、登場人物が皆、浮世離れしているせいか、生々しさや切迫感があまりなくて、のんびりした雰囲気です。そうしたことも含め、作品から受ける"あわあわ"感が、なんとはなしに「センセイの鞄」と似ているようです。ということで、「センセイの鞄」が好きな方にはおすすめです。
恋愛は、だから難しい。というよりも、恋愛を自分がしたいんだかそうでないんだか、まず見極めることが難しいのだ。
なるほどそうだなあと共感した言葉です。
ところで、古道具屋という商売も興味深かったのですが、中野商店が扱っている古道具は、骨董やアンティークとは別もので、店で売られているのは主に昭和半ば以降の家庭の標準的な道具(たとえばちゃぶ台とか、古い扇風機とか、ストーブとか、こたつとか)で、あまり役に立ちそうもないけど、意外と結構繁盛しています。古眼鏡が隠れヒット商品で、昭和初期のグリコのおまけとか、由美かおるの蚊取り線香の看板とかが売れ筋の商品らしいです。
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8.ハヅキさんのこと(2006) |
講談社文庫
評論家 福田和也さんの「文章教室」には、川上さんの「蛇を踏む」も題材として取り上げられていて、川上さんの作品について以下のように書いています。
浮遊した現実感ということになるのでしょうか、現実をきっちりとした輪郭を持って描くのではなく、あいまいなままで書いていくのが川上氏はうまい。
動物も人間も区別はないという川上氏の世界のとらえ方は、異界のものに自分を取り込まれる恐怖を男たちが描いたのとは対照的に
― たとえば「雨月物語」や「耳なし芳一」 ― 、「べつにいいじゃん」とばかりに、異界に取り込まれることの快感、エクスタシーを描いています。これは女性独特の感覚かもしれません。川上氏に女性ファンが多いのはこの恍惚感を味わえるからではないでしょうか。
「ハヅキさんのこと」は、1篇が10ページ未満の25の掌篇を集めた小説集で、「蛇を踏む」のような異界は表立っては現れないけど、”浮遊した現実感”がそこここに感じられ、いかにも川上さんらしい虚実のはざ間をあわあわと漂うがごときの小説世界にひたることができ満足でした。
そういえば現実に浮いてしまった話もありました。
あたしは軽くシャワーを浴びてから、腰まで湯船に沈んだ。お湯は澄んでいた。あたしの足やお腹が、お湯の中でふよふよとにじんで見える。
そのままゆっくりとうつぶせに沈んでみた。目をつぶったまま、息をはく。大きな泡がぶくぶくと音をたててのぼってゆく。あたしの体が浮いた。お尻から背中、頭のてっぺんまでが、すうっと浮いた。腕をのばして掌を湯船の底に当て、脚をゆっくりとのばすと、脚全体も浮いていった。
しばらく浮いてから、あたしは顔を上げた。のぼせかけたので、あわててお湯から上がった。カズちゃん、浮いたよ。あたしはつぶやいた。カズちゃん、あたし、結婚するんだよ。つづけてあたしはつぶやいた。
「浮く」
川上さんと同年代の40代とおぼしき女性が登場する掌編もわりと多い。
48歳になったばかりで、高校生の娘がいる私は高校の同窓会で再会した鈴木君と3年前から恋をしていて、浮遊した現実感を体感している。
きもちわるいんだか、きもちいいんだか、わからないような浮遊感。
しばらく私は浮遊感に身をまかせた。
鈴木君。頭の中で言ってみる。鈴木君、すき。あいしてる。
ねえさおり、私はこの48年間、ずっと中途半端なの。もう少し大きな声で、言ってみる。さおりは振り向かない。
台所の戸棚を開ける音がする。ねえさおり、私今朝48歳になったの。そして鈴木君とこの3年間ずっと恋をしているの。そして私はからっぽなの。
「ネオンサイン」
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9.天頂より少し下って(2011) |
小学館
7編の作品を集録した短篇集で、老いた母と40代の一人暮らしの娘が旅行に出かける「夜のドライブ」なども含まれていますが、大体は恋愛がからんだ小説です。どの短篇も、ふわふわ、せつなさ、さみしさ、あまさなどの川上弘美節に浸りたいファンの期待に応えてくれる作品です。カバー装画が、僕の大好きなクレーの絵なのもうれしい。
冒頭の「一実ちゃんのこと」の一実ちゃんは、あたしが予備校で知り合った女の子で、お父さんが深く愛していた亡き妻にそっくりの、娘の実加ちゃんのお尻の細胞から作られたクローン人間だと言う。家には一実ちゃんのほかに、二実ちゃん、三実ちゃんという実加ちゃんのクローンがいるらしい。一実ちゃんがほんとうにクローンかどうかはどうでもよくて、自称、反抗期でなげやり派の一実ちゃんとあたしとのつるつるとした会話が楽しい。
「ユモレスク」で、イイダアユムにコイゴコロを抱くハナの一途さがせつなく、おかしい。ハナが書いた「イイダアユム」を文頭に読み込んだ折詩の連作第一作は、「いいの/いくの/だめ/ああ/ゆっくりよ/むらむらしちゃう」だ。井の頭公園近くの喫茶店「やまもと」のマスターとのやりとりもいい雰囲気です。
表題作「天頂より少し下って」では、45歳の真琴にはずっと年下の恋人涼がいて、別れた夫との間の息子、真幸と二人で暮らしています。あるとき、涼とバーにいるときに真幸と恋人が入ってきて、双方困惑してしまったりしますが、家で母子二人でウィスキーを飲みながらの会話のしんみり感がいいです。
真幸が好き。真琴は思う。涼も好き。つづけて思う。不埒だな、あたし。不埒で、女で、むきだしで。
立ち上がると、急に酔いがきた。真夜中の冷えた空気が、きん、と真琴をつつむ。少し、泣きたくなった。泣くかわりに、笑った。(略)
いつかまた、この瞬間のことを思い出すことがあるのかな。真琴は思う。好きな男たちがいて、でも不安で、どうやって生きていったらいいかわからない幼い子供みたいな気持ちでいる、今のこの瞬間のことを。
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140文字紹介:Twitter投稿 |
○大きな鳥にさらわれないよう(2016)
数千年後の世界、人類は衰退から滅亡への歩みを止められないでいます。
大きな母、母たちと子どもたち、彼らをひたすら見守るものたちの幾世代にもわたる物語です。
"澄んだ絶望”ということばがぴったり。はかなくて、いとおしくて、うつくしくて。"
○森へ行きましょう(2017)
人にはそれぞれ、あのとき・・・でなく・・・していれば、という岐路が無数にあります。
小説は、同じ境遇に生まれ別の道を歩んだ留津とルツ(そしてその他の"るつ")のパラレルワールドをたどっていきます。
人生という森の豊穣さにあらためて気づかされます。
○某(2019)
名前、年齢、性別不明のまま突如現れた私は、「誰でもない者=某」だった。何にでも変化できる"某"は、女子高生、男子高生、31歳の男性・・・と変化し続ける。
川上さんらしい魔訶不思議な小説。他者への愛、共感を知って、次第に変わっていく"某" に注ぐまなざしは優しい。
○三度目の恋(2020)
川上さんらしい時空を超えた愛(かな)しい物語に酔った。
梨子は現実と吉原の花魁、平安時代の姫の女房となる夢世界を行き交いそれぞれ異なった愛の形を知る。
時代により恋愛・性愛に対する意識は変わるけど、思いきり甘美で悩ましくて苦しいことに変わりはない。"
この小説は、川上さんの現代語訳もある『伊勢物語』と澁澤龍彦『高丘親王航海記』がモチーフとなっていて、平安一のモテ男、在原業平は梨子が愛するナーちゃんに、天竺に向かい幻想の世界を遍歴した親王はほのかな思いを寄せる高丘さんに投影され、対照的な愛を志向する二人の転生譚でもあった。"
○伊勢物語(950頃)/作者不詳 川上弘美 新訳
平安時代の貴公子たちをめぐるエピソードが、和歌を含む短い文章で綴られています。
多くが粋な恋の話で、モテるためには巧みに和歌を交わせるスキルが必須だったみたい。
川上さんのやわらかな文体が、あわあわとした色恋模様にマッチしています。
引きこまれたのは、そこにある恋愛の逸話が、ごく短いにもかかわらず、恋愛の精髄を示したものだったからである。男がいて、女がいて、からだやこころの交わりがあって、好いて、飽きて、別れて、すがって、けれどかなわず、いや、時にはかない、そして・・・・。
「伊勢物語」訳者あとがき/川上弘美
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■参考Webサイト |
○ 川上弘美 関連出版
○ 参考資料
・川上弘美(Wikipedia)
・ユリイカ2003年9月臨時増刊号 総特集=川上弘美読本
・川上弘美 (現代女性作家読本 (1)) /原 善
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■主要作品リスト |
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