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 映画特集
  

希少価値的存在となった日本の1990年代以降の純愛映画を紹介します。
"純愛映画"の定義にはいろいろな見解がありそうですが、ここで取りあげるのは、大人の恋を描いていて、ラブシーンは淡いキスくらいまで、ちゃんと泣かせてくれる映画に限定とします。

愛の始まりには多くの偶然が作用するが、どのような愛の場合にも、そこに神秘の影が射している。二つの異なった孤独と孤独とが接触する時に、海の上の蜃気楼のように、砂漠の中のオアシスのように、忽然と愛が生まれて来る。
「愛の試み」/福永武彦

 
さびしいなんて
はじめから あたりまへだった
ふたつの孤独の接点が
スパークして
とびのくやうに
ふたつの孤独を完成する
決して他の方法ではなされないほど
完全に
うつくしく
「オンディーヌ」より/吉原幸子

 
涙が一筋彼女の頬をつたって膝の上に落ちた。でもそれだけだった。それ以上は涙もこぼさなかったし、声も出さなかった。
「ダンス・ダンス・ダンス」/村上春樹

以下の作品を紹介しています。純愛映画の評価のバロメーターとなる涙腺刺激度を、三段階(☆〜☆☆☆)で表示しています。
Love Letter ラブレター(1995)
ハル(1996)
たそがれ清兵衛(2002)
解夏(2003)
月とキャベツ(1996)
長崎ぶらぶら節(2000)
恋愛寫眞(2003)
星に願いを(2002)
(参考)星願〜あなたにもういちど〜(香港・1999)
東京日和(1997)
黄泉がえり(2002)
いま、会いにゆきます(2004)

1.Love Letter ラブレター(1995)涙腺刺激度:☆☆ 
(監)岩井俊二  (演)中山美穂、豊川悦司、酒井美紀、柏原崇

 藤井樹(いつき)が雪山で死んで二年が過ぎた。彼の三回忌が行なわれた3月3日、神戸には珍しく雪が降リ積もった。婚約者だった渡辺博子(中山美穂)は、この二年間、樹への想いをずっと胸に抱いて生きてきた。樹の実家で彼が通った小樽の中学校の卒業アルバムを見せてもらった博子は、そこにかつて樹が住んでいた住所を見出した。そこは今では国道が走り、人が住めないはずの住所だった。三回忌を機に、博子は樹宛てにたった二行の手紙を書いた。届くはずのない、樹への訣別の意志をこめた最後のラブレターだった。

拝啓、藤井樹様。
お元気ですか? 私は元気です。
渡辺博子

数日後、小樽から手紙が届いた。

拝啓、藤井博子様。
私も元気です。
でもちょっと風邪気味です。
藤井 樹
                      

 小樽の藤井樹(中山美穂の二役)は、博子の婚約者の樹とは同姓同名で、二人は中学の三年間同級生だったわけですが、ほんの偶然から始まった博子と樹の文通は、中学時代の二人の樹(酒井美紀と柏原崇)の失われた時を次第に蘇(よみがえ)らせることになります。そして、それは過去に樹が出したラブレターを現在に蘇えらせる結果となります。
 博子と樹の書いたラブレター、二人の樹、博子と樹の相似、神戸と小樽の雪景色、樹と彼女の父の肺炎など、事象の二重性が際立つ作品です。そして一方では、生と死(二人の樹、樹と彼女の父)、現在と過去、博子と樹の性格の対照も鮮やかに描かれていて、それらが、"失われた時を求めて"を主題とするこの映画から立ちのぼるミステリアスで、一種のデジャヴ(deja vu 既視感)を伴う夢幻的な雰囲気を醸成しているようであり、同時に愛の儚(はかな)さと永遠性という相反する両面を象徴しているかのようでした。
 全篇ロケによる映像美にも心奪われる映画ですが、冒頭のシーンから、美しい雪景色に魅せられます。神戸、小樽、樹が遭難した雪山を望む山小屋、それぞれの場所での雪の白さは、博子と樹の純な真情を映し出していました。樹が死んだ雪山に向かって叫ぶ博子の声は、天国の樹に向けたものであると同時に、失われた過去の記憶からようやく解き放たれ、未来に向け自らの意志で一歩を踏み出そうとする自身の内面に向けたものだったのだと思います。

博子は何か叫ぼうとしたが、隣で見ていられるのが恥ずかしくて雪原の中腹まで走った。そして誰はばかることなく大声で叫んだ。
「お・げ・ん・き・ですかァ! あ・た・し・は元気でーす! お・げ・ん・き・ですかァ! あ・た・し・は元気でーす! お・げ・ん・き・ですかァ! あ・た・し・は元気でーす! お・げ・ん・き・ですかァ! あ・た・し・は元気でーす!」
小説「ラヴレター」/岩井俊二(角川文庫 '98初版)


2.ハル(1996)涙腺刺激度:☆
(監)森田芳光 (演)深津絵里、 内野聖陽、戸田菜穂

 "ハル"は食品メーカーに勤務する速水昇(内野聖陽)のハンドル名で、彼は学生時代からアメリカン・フットボールに青春のエネルギーを注いでいたが、体を壊し選手生命を絶たれたことで、自分の進むべき方向を見出せないでいた。そんなとき、場違いのパソコン通信の映画フォーラムにアクセスした彼は、ハンドル名"ほし"と知り合い、メール交換を重ねる中で、お互いに本音を語りあうことのできる唯一の友人となっていった。ある日、男性と称していた"ほし"が、実は自分は女であると告白した。

正直に言います。「私は女です」(;-;)(何か変な気持ち)
男が女になったくらいで、ハルは変わらないことを信じます。


 ほしは盛岡に住む藤間美津江(深津絵里)で、彼女は高校時代からの恋人を交通事故で亡くした心の痛手から立ち直れず、新たな愛を拒み仕事を転々としていた。ほしが女性となってからも二人の友情は変わらずにいたが、ハルの東北出張時に互いに示し合わせ、時速200kmの新幹線車中のハルと線路脇のほしとの一瞬の邂逅をきっかけにして、お互いをヴァーチャルな存在からリアルな異性として意識するようになっていった。

 インターネット登場以前に、電話回線を使ったメール交換システムとして普及していたパソコン通信(ニフティサーブとか、PC-VANなどが大手でした)を介しての恋愛を描いた作品です。「ユー・ガット・メール」(1998)も同種の映画ですが、こちらのほうが先駆となります。
 映画の相当の部分が、メールのテキスト画面という大胆な演出に評価が分かれるところでしょうが、準主役であるといってもいいパソコン通信を浮き立たせるという点では評価できると思います。
 相手の孤独を自分のものとして引き受けることが愛ということであると思うし、二人とも同じように生まじめで、それゆえ生きるのに不器用で、結果として孤独を抱え込んでしまいながらも、数十通のメールにより互いに励ましあってきたハルとほしの相性は、きっと抜群にいいに違いない。
 リアルな出会いから始まる二人の新たな愛を応援します \(^O^) /

はじめまして (^−^)

3.たそがれ清兵衛(2002)涙腺刺激度:☆☆
(監)山田洋次  (演)真田広之、宮沢りえ、田中泯 
第76回キネマ旬報ベスト・テン 日本映画ベスト・テン第1位
第26回日本アカデミー賞 最優秀作品賞・最優秀監督賞・最優秀主演男優賞・最優秀主演女優賞・最優秀助演男優賞など
アカデミー賞外国語作品賞ノミネート

原作につきすぎてもいなければ、離れすぎてもいない、そういう位置で、自由に原作を料理し、まさに映像でしか表現できないものを描きだしているような作品にぶつかると、原作者は、半ば観客であり半ば原作者である立場から、完全に一人の幸福な観客になり切る。つまり脱帽するわけである。
「小説の周辺」/藤沢周平(文春文庫 ‘90年初版)


 今は亡き原作者の藤沢周平さんが、もしこの映画を観たなら、きっと脱帽したのではないかな。
 映画は、藤沢さんの短篇「たそがれ清兵衛」、「祝い人助八」それに「竹光始末」の三篇のエピソードをブレンドして再構成したストーリーとなっていて、なかでも清兵衛と朋江の純愛を含む主要な部分は「祝い人助八」に拠っています。

 幕末の時代、庄内地方の海坂藩が舞台。下級武士の井口清兵衛(真田広之)は妻を病で亡くし、二人の娘と老母を抱え、貧乏暮らしをしていた。彼は娘たちや母の世話をし、内職にいそしむために、勤めが終わると同僚の酒の誘いも断り、まっすぐに帰宅することから”たそがれ清兵衛”と呼ばれていた。ある日、清兵衛は幼なじみの友人の妹、朋江(宮沢りえ)の危難を救ったことから剣の腕が噂になり、上意討ちの討ち手として選ばれてしまう。藩命に逆らうことが許されない清兵衛は、朋江に今までずっと秘めていた想いを打ち明け、決死の覚悟で、藩内きっての剣客、余吾善右衛門(田中泯)の待つ屋敷へと向かう。

 この映画の原作となった短篇を含め、藤沢作品の武士を題材とした小説の多くは、藤沢さんが生まれ、そして愛した山形県西部に位置する庄内平野にある海坂藩を舞台にしていて、この映画でもドラマの背景となるこの地方の風景が美しく描かれていました。

山があり、川があり、一望の平野がひろがり、春から夏にかけてはおだやかだが、冬は来る日も来る日も怒号を繰り返す海がある。こうした山や川に固有名詞をあたえれば、月山、羽黒山、鳥海山、川は最上川、赤川。そして平野の西に這う砂丘を越えたところにある海は、日本海ということになる。
「ふるさとへ廻る六部は」/藤沢周平(新潮文庫 ‘95年初版)


 藤沢さんの時代小説は、人間が人間であることにおいて、時代を超越して抱えこんできた人間性の不変の部分に視点をおいて書かれたものですが、そうした根本となる視点はこの映画においても受け継がれていたと思います。
 父である清兵衛と、まだ小さい娘たちを結ぶ深い信頼の絆が美しく描写されていました。それゆえにこそ、藩命という組織の絶対命令により、愛するものたちを残して決死の地へ赴かざるを得ないという理不尽に対する清兵衛の無念の思いが伝わってくるとともに、組織の中での出世をあえて望まず、家族を守ることを信条とすることを誇りに思う清兵衛の誠実さに胸をうたれます。

 上級武士の娘である朋江の立ち居振る舞いの凛とした美しさも忘れがたいものでした。
 庄内弁がきつくて、せめてDVDでは字幕バージョンが欲しいくらいですが、方言の背後にはその土地の気候や風土や、人々の暮らしぶりがぎっしりと詰まっているからこそ、果し合いというぎりぎりの状況に置かれた清兵衛が朋江に語る訥々とした愛の告白が、真心からの言葉として胸に沁み入るのでしょう。

4.解夏(げげ)(2003)涙腺刺激度:☆
(監)磯村一路 (演)大沢たかお、石田ゆり子、富司純子、松村達雄

 小学校教師の隆之(大沢たかお)は、ある日突然目の異常を感じ、いやな予感を抱いた彼は、幼なじみの眼科医の診察を受け、自分がベーチェット病という徐々に視力を失い、ついには失明に至る難病に罹ったことを知ります。隆之は小学校を辞職し、母(富司純子)が一人で暮らす長崎の家に帰郷します。彼は、婚約者の陽子(石田ゆり子)との別れを決意し、学術研究の為モンゴルに滞在している彼女には病気のことを知らせませんでしたが、父から事実を知らされた陽子は急遽帰国し、隆之を追って長崎にやって来ます。
 陽子は愛する隆之が苦難に直面しているからこそ、自分が彼の支えになりたいと切に願っています。一方で隆之は、そんな陽子の気持ちは痛いほどわかるものの、自分と一緒になったことを陽子が後悔するときがいつか来るにちがいない、そのときの辛さを思うと今別れるのが二人にとって最善の選択だと感じています。
 隆之は視力を失う前に、生まれ育った長崎の街を脳裏に刻み込んでおこうと心に決め、陽子と二人で坂の街を巡ります。ある日禅寺で出会った老人は隆之に、あなたは失明する恐怖、という行をしているのだと語ります。

「失明した瞬間にその恐怖からは解放される、苦しか、切なか行ですたい。ばってん、残念ながらいつか、来るとですなあ」
「なるほど。失明した瞬間に『失明するという恐怖』から解放される、ということですね」
「はい。その日がああたの解夏ですなあ」
「解夏」/さだまさし(幻冬舎文庫 '03年初版)


 根本のところで、人の真心は信じることができるのだという、さだまさしさんの原作の基調は映画においても変わりありません。そしてそれはさださんがデビュー以来書いてきた歌詞から伝わってくるさださん自身の願いでもあるのでしょう。隆之と陽子の心の絆、隆之の母や陽子の父や友人たちが二人に寄せる温かいまなざしが、難病という重いテーマを扱っていながら全体の雰囲気を不思議と明るくしています。
 解夏の時を迎え失明に至ったとき、視界は漆黒の暗闇に閉ざされるのではなく、あたかも乳白色の霧の中にいるようであるということが、わずかながら救いであるように思えました。その霧の中を歩み始める隆之の未来も明るいものであることを信じたい。

5.月とキャベツ(1996)涙腺刺激度:☆
(監)篠原哲雄 (演)山崎まさよし、真田麻垂美

 月の引力が
こんな大きな海をひっぱるほどなら
月夜には わたしたち
すこしづつ かるいのかもしれない
「ひき潮」より/吉原幸子


 月のせいなのか、観たあとでちょっと心が軽くなるような気がするピュアなファンタジーです。
 カリスマ的な人気があったバンドを解散して1年半、山中の廃校に住み、キャベツの栽培をしている花火(山崎まさよし)のもとに、彼のファンだという少女(真田麻垂美)がやって来ます。彼女はヒバナと名乗り、創作ダンスを学んでいて、花火の曲でいつか踊りたいのだと言います。花火は彼女を追い返そうとしますが、ヒバナはそのまま居着いてしまいます。不思議な少女ヒバナの存在が、眠っていた花火の創作意欲を目覚ませ、やがて新曲"One more time, one more chance"が形作られていきます。

 都会の生活に疲弊し、曲を書けなくなったミュージシャン、花火が田舎に引き込み、ヒバナとの出会いを通じて徐々に心を回復していく過程が描かれていて、花火がピアノ弾き語りで歌う"One more time, one more chance"や、緑の草原に代表される自然の描写は、観ている僕たちへの癒し効果もありそうです。キャベツのステーキもおいしそうだった。

「わたしは花火がいるかぎりヒバナなの」

 ヒバナにとっての夏休みが終わり、花火にとっての長い休みも終わりを告げることになりそうですが、許されるのならば、又の夏休みに二人が再会できればいいのだけれど。
 
(関連音楽) 映画で歌われた曲を収録した山崎まさよしのアルバム紹介
HOME(1997

"One more time, one more chance"を収録。こちらはピアノの弾き語りではなく、ギター中心のバージョン。白眉は、やはり"One more time, ・・・"だと思うけど、冒頭の迫力ある"Fat Mama"とか、"名前のない鳥"、"僕らの煩悩"もいいな。
 
アレルギーの特効薬(1996)

"月明かりに照らされて"を収録した1stアルバム。ギター、ブルースハープ、力強いボーカルが印象的。デビューシングル"月明かりに照らされて"を始め、タイトル曲や、"心拍数"や、バラード"坂道のある街"が好き。山崎も月が好きな人なんだな。

6.長崎ぶらぶら節(2000)涙腺刺激度:☆☆
 (監)深町幸男 (演)吉永小百合(日本アカデミー賞 主演女優賞)、渡哲也、原田知世、高島礼子

 作詞家なかにし礼さんの直木賞受賞小説を映画化した作品です。
 江戸の吉原、京の島原と並び日本の三大花街に数えられた長崎の丸山を舞台に、名妓と呼ばれ、明治、大正、昭和を生きぬいた実在の芸者、愛八の生涯を描いています。
 海岸の貧しい家に生まれた少女サダ(後年の愛八)は、明治16年(1883年)10歳のときに、丸山の芸者置屋に売られて行きますが、芸事に秀でた彼女は、その気っぷのよさも幸いして長崎でも指折りの人気芸者となります。
 ある日、愛八(吉永小百合)は五島町の大店である万屋の十二代目で、郷土研究の著名な学者でもある古賀(渡哲也)と出会い、一目惚れします。このとき愛八が49歳、古賀は44歳で、古賀には妻子がいました。
 古賀は「金は、人間を粗末にする」との信念から莫大な財産を花街で蕩尽し、大きな家を処分して郷土研究(長崎学)に打ち込みます。彼は歌の上手い愛八を、長崎に伝わりながら今では忘れ去られた古い歌を探して記録する旅に誘います。
 
「な、愛八、おうち、おいと一緒に、長崎の古か歌ば探して歩かんね。おいは長崎ば愛しとるけん、長崎の歌探しばやってみようと思うとっとたい。どうやろ、おいにつきおうてみんね」
 「やりまっしょ、二人一緒に、長崎の古か歌ば探して歩きまっしょ。牡丹の花のごとき大きか夢ば見まっしょや」

「長崎ぶらぶら節」/なかにし礼(文春文庫 '02年初版)
 
 自分と同じく、歌に対して熱い思いを抱く古賀に、愛八はますます魅かれていきます。彼女にとって生まれて始めての恋でした。
 日曜日毎の歌探しの旅は3年に及び、二人の旅の最後に、長崎ぶらぶら節に出会います。それは、愛八が丸山に売られていく道すがら、彼女を連れた女衒の男が歌ってくれたものでした。二人で探し当てたこの歌は、その後愛八がレコードに吹き込み、長崎民謡の代表的な歌として現代に歌い継がれていくことになります。
 
遊びに行くなら花月か中の茶屋
梅園裏門たたいて
丸山ぶうらぶら
ぶらりぶらりと
いうたもんだいちゅう


 古賀にとっての学問、愛八にとっての芸、対象は異なるものの一途な思いでは似たもの同士の二人は、互いの心情を最も理解し合える相手だったのでしょう。内に情熱を秘めながらも性急さを求めず、美しくもかなしい大人の恋を描いていて泣かせます。
 劇場の臨場感あふれる大画面で、長崎くんちの活気、芸者衆の総揃いの華やかさ、艶っぽさとか、長崎の街並み、自然を堪能したい映画です。

7. 恋愛寫眞(2003)涙腺刺激度:☆
(監)堤幸彦 (演)広末涼子、松田龍平

 プロカメラマンを目指す大学生、誠人(松田龍平)は、ある日キャンパスで静流(広末涼子)と出会った。自由奔放な静流に圧倒されながらも、誠人は彼女に惹かれていき、やがて二人は一緒に暮らし始める。
 誠人にカメラの手ほどきを受けた静流は、憑かれたように写真を撮り始め、二人で応募した写真雑誌の新人賞を受賞してしまう。落選した誠人は感情の整理ができず、静流は彼と別れる決意をする。

「誠人と同じ世界にいたかっただけだよ...... 同じ空気吸って、同じもの見て、一緒に笑ったり感動したりしたりして...... ずっと一緒にいたかったんだよ...... ずっと二人で一緒にいたかった」

 大学を卒業してから念願のカメラマンとして独立したものの、かつかつの生活を送っていた誠人は、静流がニューヨークで死んだという噂を聞く。その直後、本人からニューヨークのギャラリーで写真の個展を開くという手紙を受け取った誠人は、取るものも取りあえず冬のニューヨークに向かった。

 幾度となく画面に映る蜜柑の酸っぱさが、ラストに至るまで口の中に、胸に残りました。
 切ないラブストーリーだけど、疾走感が気持ちいい。キャノンの質感あるアナログ一眼レフを構え、軽やかに街や人や空を撮りまくる二人、生き生きとした現実をそのままフィルムに定着させた静流の写真、9.11の記憶が古びていないニューヨーク、ミステリアスな展開と洒落た演出、そして音楽と。マヨヌードルが気になるけど試す勇気がまだないのです。

8.星に願いを(2002)涙腺刺激度: ☆☆☆
(監)富樫森 (演)竹内結子、吉沢悠

あのひとは 生きてゐました
あのひとは そこにゐました
ついきのふ ついきのうふまで
そこにゐて 笑ってゐました

「あのひと」より/吉原幸子
 
 香港映画「星願〜あなたにもういちど〜」(下で紹介しています)のリメイク版です。
 天見笙吾(しょうご)(吉沢悠)は、3年前の交通事故により視力と、声を失った。絶望した彼を励まし、立ち直らせたのは担当看護婦の青島奏(かな)(竹内結子)だった。二人の間には、いつしか患者と看護婦という関係を超えた特別な感情が生まれ、育っていた。そんなある夜、笙吾は再度の交通事故で病院に運ばれ、奏の目の前で息絶えてしまう。流れ星のお陰で数日間の命をもらった笙吾は、生前、奏に伝えられなかった自分の想いを告白しようとするが、奏は別人に生まれ変わった笙吾の振る舞いを理解できなかった。

 映画の背景となった函館の街がすっきり、きれいに描かれていて、一瞬の流れ星のように儚(はかな)くて切ないラブ・ファンタジーの雰囲気に良く調和していました。海岸通り、橋、路面電車、そして夜景☆☆☆☆☆、 笙吾が吹くハーモニカの哀愁漂う響きもBGMとしてふさわしいものでした。夜の海岸通りを笙吾の名を呼びながら走る奏の姿は忘れられません、きっとこれからもずっと。
 ほどよいところにいてくれて、何の気を使わないで愛を感じる相手がいればいいな、という奏のささやかな願いを支えてくれるほどに、流れ星のパワーがもっと強力だったらなあという、しょうもないことを見終わった後もあれこれ考えてしまいます☆☆☆☆☆

人が死ぬということは、こういうことなんですね。記憶はしっかりあるけれど、もういない。どこにもいないから、もう会えない。

 そう言っていた奏だけど、自分の胸の中の笙吾と、これからもずっと一緒にいられることを知ったから大丈夫でしょう。


(参考)星願〜あなたにもういちど〜Fly Me To Polaris (香港・1999)涙腺刺激度:☆☆☆☆
(監)ジングル・マ  (演)セシリア・チャン、リッチー・レン、エリック・ツァン
 
幸せも涙もあるけれど、その記憶の一つ一つが、僕の愛する人に生きていく勇気を与えてくれますように。

 子供の時の事故で視力を失い口のきけなくなったオニオンと、ナースのオータムは互いに惹かれあっていたが、オニオンは車にはねられ死んでしまう。死んだ人間は、死後の生活を送るべく北極星へと向かうことになっていたが、彼は北極星への乗換駅を訪れた600億人目ということで、一つだけ願いがかなうこととなった。オニオンは、心残りだったオータムへの愛の告白をするため、別人の姿で5日間だけ地上に戻ることになった。

 この映画のリメイクの日本版と、ほぼ同じストーリー展開です。ただオニオンはハーモニカではなく、ソプラノ・サックスを吹いていました。
 せつなくて悲しい映画だけれど、可憐で純真なオータムがオニオンへ寄せる想いのひたむきさが胸を打ち、あたたかい涙を流せました。それもたっぷりと。星☆☆☆では、他の映画と差が出ないので、☆☆☆☆にしてしまいました。映画館で観てたら、きっと弱ったろうな。家で家族と一緒でも困ってしまう。セシリア・チャンのあの涙は、絶対に本物だよ。それと彼女は意外とハスキーボイスなんだけど、「言われたんだけど、私の声ってガチョウみたい?」とオニオンに詰め寄るシーンがあって、これは笑えました。
 登場人物は、皆いい人たちばかり。オニオンの友人のジャンボ、彼に足を踏まれた看護婦さん、オータムに恋心を抱く医師、彼女の姉さん、DJの女性、北極星への乗換駅の係員とか。コロニアルスタイル風の病院も雰囲気があってよかったな。とくに夜の病院の映像が美しかった。BGMもよかったし、ということで、純愛映画のお手本のような映画でした。心が乾いているときなんかに観るといいんじゃないかな。ただ、オニオンががぶ飲みする塩たっぷりのレモンソーダというのは、どうも抵抗がありましたね。

どうかみんな目を閉じて... そばにいる人を心で感じて... とてもいい感じがするから

9.東京日和(1997)涙腺刺激度:☆
(監)竹中直人 (演)中山美穂、竹中直人

 物想いに沈んでいる表情が良い、と言ってくれた。私はその言葉にびっくりして、じっと彼を見詰めていたような気がする。
 その時までの私の世界は、きっと原色だったろう。けれど、その原色は渋いニュアンスのある色に変わろうとしていた。一人の男の出現によって、季節がはっきりと区切られていくのを、密かに自分の心の中に感じていた。私、20才。彼、27才。冬の終わり頃だった。
愛情生活」/荒木陽子


 天才写真家、アラーキーこと荒木経惟のフォト・エッセイ「東京日和」の収録写真からイメージを発展させ作られた映画で、「東京日和」の掲載写真と同じカットのシーンも数ヶ所登場します。
 映画では、写真家、島津と妻ヨーコの夫婦愛が、二人の日常を背景に美しく描かれていますが、映画での二人とモデルとなった荒木夫妻のイメージとは随分と違っていて、映画のストーリー自体は、全くのオリジナルと考えられます。とくに映画のヨーコは、エキセントリックで精神的にもろい部分を抱えている女性として描かれていますが、アラーキーをして「私の写真人生は陽子との出会いから始まり、陽子の死と共に終わってしまっている」と言わしめた実際の陽子さんは、彼女のエッセイから推察するに、精神的にとても強い女性だったようで、現実の二人をモデルにしていたら全く別の映画になったでしょう。

 映画「東京日和」は、オリジナル脚本の純愛映画であるとともに、フォトエッセイ「東京日和」が、アラーキーが亡き妻、陽子に捧げたオマージュであったように、監督であり俳優である竹中直人が、女優、中山美穂へのオマージュを記録したという二重性をもった作品なのではないか。竹中さんの演技、美穂さんの儚(はかな)げで透明な美しさをあまねく映し出した柔らかなタッチの画面から、そうしたことが伝わってきて、この映画の真の被写体は、ヨーコではなく中山美穂なのではないかと思えてきます。キスシーンを敢えて撮らなかったのも、竹中さんの美穂さんに寄せる純愛ならではのことなんだろう。背景として描かれた東京の街の風情、東京ステーションホテル(今度、あのカフェを訪ねてみよう)、九州の柳川風景も、美穂さんを引きたてる為の装置となっているようでした。美穂さんにとっては、きっと女優冥利につきる映画となったのではないだろうか。
 中島みゆきがバーのママ役で出ていたり(変に色っぽい)、車掌役でラストにちょっとだけ登場したアラーキーもいい味を出していました。僕の大好きなアーティストである大貫妙子さんがこの映画の音楽を担当していますが、とてもよかった。

10.黄泉がえり(2002)涙腺刺激度:☆
(監)塩田明彦 (演)竹内結子、草g剛、石田ゆり子、柴咲コウ

 九州の阿蘇山のふもとの町で、死者たちが戻って来た。愛する夫、妻、兄弟、自殺した高校生 ...彼らは自分がどうして黄泉がえったのかの記憶がなかった。ただ、今もなお自分を愛する者たちのもとへ帰ってきたのだった。
 自分の故郷で起きた異常現象の調査のため厚生労働省より派遣された川田(草g剛)は、かつて彼の親友で海で死んだ俊介の婚約者だった葵(竹内結子)と再会した。

 梶尾真治の原作をもとにした映画です。ただ、原作には川田と葵の純愛のエピソードは登場せず、黄泉がえりがもたらす人間ドラマと、現象によってゆれ動く社会状況の描写に焦点が置かれています。小説では、役場に黄泉がえり者の戸籍復活を求める人々が続々と現われるに至り、信じがたい現象ながら事実は事実として対応しなければならないという行政の立場から、県は知事を本部長とする熊本都市圏特殊復活者対策本部を設置し、特殊復活者審査会で認定された"黄泉がえり者"には住民票が発行され、社会復帰のための「特殊復活者手帳」が配付されることになります。
 人間というのは、死者の生還というこれ以上はなさそうなとんでもない事にさえ、やがては順応してしまうというのは、確かにそうなんだろうなと得心させられます。また映画ではほとんど説明されない"黄泉がえり"現象をもたらした宇宙から飛来した生命体のようなものの意識の変化の描写が適宜挿入されていたりして、小説と映画とではかなり雰囲気が異なります。
 映画では、黄泉がえり者をめぐるいくつかの愛の物語が並行して描かれ、川田と葵の場合にはサスペンス・タッチの展開もあり、二人の愛の行末は見てのお楽しみです。
 黄泉がえりシンガー、RUI(柴咲コウ)が「月のしずく」を歌うコンサートの場面は盛り上がっていました。この曲を含むアルバム「蜜」は、高い水準のポップス・アルバムとして評価できると思います。

11.いま、会いにゆきます(2004)涙腺刺激度: ☆☆☆☆
(監)土井裕泰 (演)竹内結子、中村獅童、武井証、大塚ちひろ 

ありがとう.... きみの隣はいごこちが良かったです
 
私もあなたの隣が好きなの


 夫の巧(たくみ・中村獅童)と、まだ小さな佑司(ゆうじ)を残し、病で逝った澪(みお・竹内結子)の1周忌が経ってまもない梅雨に入ったばかりの雨の日、巧と佑司は森にある工場跡でうずくまる澪(みお)を見出した。巧と佑司は、澪が死の前に残した「1年後の雨の季節に会いに来ます...」という言葉が本当になることを願っていたが、奇蹟は起こったのだ。だが、家に連れ帰った澪は一切の記憶を失っていた。自分が死んだことも。
 澪は戸惑いながら、巧や佑司と、かつての家族のように暮し始め、記憶が戻らないままに、次第に巧や佑司への新たな愛を育んでいった。巧と佑司は澪を再度失うことを恐れ、彼女の死については明かさなかったが、雨の季節が終わるとともに澪がまた帰っていくことを悟っていた。

 映画を観終わって思ったこと、身近な人への思いを新たにしたい、当たり前すぎて気づかずにいた居心地のよさを大事にしたい、ヴォネガットの「タイタンの妖女」を読み返したい。
 恋愛、夫婦の愛、家族の愛、それぞれの愛のかけがえのなさについて、あらためて気づかせてくれた映画でした。そして雨がこれほど優しく感じられた映画はいままでなかったと思います。いつまでもいつまでも降り続けばいいのに....
 脳の障害というハンディを持ちながら、なによりも澪と佑司を愛する巧、優しいけれど頼りない"たっくん"(巧)を健気にも支えようとする小学校1年生の佑司、そして内に秘めた凛とした強さと勇気とで自らの未来を選びとった澪、それぞれの思いに共感することができました。
 記憶を失って帰ってきた澪と巧の新たな愛の歩みとともに、澪に請われて巧が語る高校時代に始まる二人の不器用な恋にからむ思い出の場面が挿入されますが、こうしたエピソードから、互いへの変わらぬ一途な思いが奇蹟を導いたのだと納得できます。
 奇蹟の6週間は、あらかじめ定められた運命であったのかもしれませんが、それを愛の奇蹟に変えたのは、澪の巧と佑司への深い思いでした。澪の二人に寄せる愛が、自分を生んだ為に母である澪が死んだという、周囲の心ない言葉に罪の意識を抱いていた佑司の心を癒し、そして自分は澪を幸せにしてやれなかったと後悔していた巧の誤解を解かすことができたのだと思います。

 香港映画「星願〜あなたにもういちど〜」と同様、暖かい涙もたっぷり流せます。涙腺刺激度も同じく最高度の星☆☆☆☆としました。

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