HOME l  PROFILE l 海外作家国内作家 l ジャズ l ピアノ音楽 l ポップス他 l 現代音楽 l 美術館映画 l 散歩 l 雑記TWITTER
梨木香歩(1959 -  )

鹿児島県の生まれ。英国に留学し、児童文学者のベティ・モーガン・ボーエンに師事。「西の魔女が死んだ」で日本児童文学者協会新人賞、小学館文学賞を受賞、「裏庭」で児童文学ファンタジー大賞を受賞。「沼地のある森を抜けて」で第5回(2005年度)センス・オブ・ジェンダー賞大賞を受賞。同作品で第16回(2006年度)紫式部文学賞を受賞。 「渡りの足跡」で第62回(2010年度)読売文学賞随筆・紀行部門を受賞。


以下を紹介しています。クリックでリンクします。
■作品
裏庭(1996)
西の魔女が死んだ(1994)
からくりからくさ(1999)
りかさん(19999)
絵本「マジョモリ」(2003)、「ペンキや」(2002)
春になったら苺を摘みに(2002)
村田エフェンディ滞土録(2004)
家守綺譚(2004)
沼地のある森を抜けて(2005)
ピスタチオ(2010)
雪と珊瑚と(2012)

140文字紹介:Twitter投稿
海うそ(2014)

関連Webサイト
作品リスト
 

1.裏庭(1996)
新潮文庫 第1回児童文学ファンタジー大賞受賞

 「私は、もう、だれの役にも立たなくていいんだ」
 全世界に向かって叫びたかった。
 自分が今まで、どんなにそのことにがんじがらめになっていたのか、たった今、気づいた。


 戦前、英国人のバーンズ一家が住んでいた屋敷には秘密の裏庭があった。13歳の照美には双子の弟がいたが、7歳の時に事故で死に、それ以来彼女の母は、父とともにレストラン経営に没頭し、照美は母の冷たさに知らず知らず傷ついていた。
 ある日照美は、今は無人で荒れ果てたバーンズ屋敷に入り込み、そこにある大鏡を入り口とする裏庭の世界に迷い込んでしまう。裏庭の世界は、いままさに崩壊しつつあり、照美が再び現実の世界に戻るためには、この世界を救う冒険の旅に出なくてはならなかった。

 照美の迷い込んだ裏庭の世界は、バーンズ家代々の裏庭の"庭師"の役目を継承したバーンズ家の娘レベッカ、さらにレベッカを引き継いだ照美の祖母、妙を初めとする既に死者となった過去のたくさんの"庭師"たちの潜在意識の蓄積により作りあげてきたものであり、新たに照美が迷い込む事によって、彼女が抱く理想の『母親なるもの』を求める意識が投影され、さらにその様相を変えていったのだと思います。
 そして照美は、この生と死の混淆のような場所である裏庭の世界を崩壊から救うという使命を果たす過程で、自らの意識下に潜むものに触れ、さらには、祖母→母→照美と継がれてきた命の流れを垣間見ることにより、いままで気づかなかった自分の心の傷を正視し、抑圧していた自分の感情の強烈な解放を経験することを通じて、自身との、そして母との和解に至る事ができたようです。

 この作品では、「いわゆる『裏庭』こそが人生の本当の表舞台。『裏庭』こそが生活の営みの根源...」という言葉も語られていますが、ここでの『裏庭』は、全人類が意識下でイメージを共有する場であり、ユングが神話や昔話の母体であると考えた普遍的無意識を象徴しているのではないかと思います。
 根源的で、広大で、豊穣で、ワイルドな裏庭世界の事物とのスリリングな出会いにより、自分自身の中の歪みのいくらかが解放されるというカタルシスをもたらしてくれるのが、僕にとっての最良のファンタジーなのでは、と思っています。

 ファンタジーは内なる自己の言葉です。
 /U.K. ル=グィン



2.西の魔女が死んだ(1994)
 新潮文庫

「おばあちゃんが死んだら、まいに知らせてあげますよ」

 まいは感受性が強く "扱いにくい子"で、"生きにくいタイプの子"だった。中学に入ったばかりのまいは、学校に行けなくなってしまう。困ったママは、まいを田舎のおばあちゃんのところにしばらく預けることにします。おばあちゃんはイギリス人で、おばあちゃん自身の言によれば、代々の魔女ということだった。
 "生きやすい"よう、魔女になりたいと願うまいに、おばあちゃんはまず精神を鍛えなければと言い、そしてそのための修行として、まいは規則正しい生活を始めることとなります。山の中で自然に囲まれ、ジャムを作ったり掃除をしたり、おばあちゃんの手伝いをしながら、まいは次第に傷ついた心を回復していきます。
 まいが何年もの間ずっと考え続け、恐れ続けてきたこと、人が死んだらどうなるんだろうという問に、おばあちゃんは「人には魂っていうものがあると思っています」と言い、死後も魂は身体を離れ、旅を続けるのだ、と語る場面がありますが、「裏庭」、「からくりからくさ」まで読んでみて、これは梨木さん自身の死生観でもあるのだろうと思いました。

「成長なんて」
まいは、なぜだか分からなかったが腹が立ってきた。
「しなくたって、いいじゃない」
おばあちゃんは困ったようにため息をついて、
「本当にそうですね。でもそれが魂の本質なんですから仕方がないのです。春になったら種から芽が出るように、それが光に向かって伸びていくように、魂は成長したがっているのです」


 この世に生を受けるとは、身体をもつことによって物事を体験し、体験を通じて魂を成長させる機会が与えられること、そして死は全ての終りでは決してないんだというおばあちゃんの言葉は、簡単に納得できるものではないけれど、心休まるものがあります。
 おばあちゃんは本当に魔女なんだろうか、おばあちゃんのところにいる間、まいには結局わからずじまいでした。2年後、まいは転校先の学校の授業中に、おばあちゃんが倒れたとの連絡を受け、ママの運転する車で田舎に向かいます。
 おばあちゃんは本当に魔女だったんだろうか.....。


3.からくりからくさ(1999)
 新潮文庫

 
「裏庭」、「西の魔女が死んだ」の両作品では、いずれも祖母から母へ、祖母・母から娘へと伝えられるもの、そして時には三代にわたる葛藤が、重要なモチーフとなっていますが、この作品において娘の蓉子が祖母から受け継いだものは、蓉子が9歳の誕生日に貰(もら)った市松人形のりかさんと、祖母が生前住んでいた家でした。
 染織家に師事している蓉子は祖母の家で、三人の下宿人(美大で染織を専攻している紀久と与季子、アメリカから鍼灸(しんきゅう)の勉強に来ているマーガレット)と共に暮すことになります。
 最初に蓉子は三人にりかさんについて話します。りかさんは、蓉子が祖母から貰ってから7日目の夕方、蓉子に語りかけたこと、この不思議は祖母と蓉子だけの秘密となり、以来りかさんの存在は蓉子にはかけがえのないものとなったこと。

 命は旅をしている。私たちの体は、たまたま命が宿をとった「お旅所」だ。それと同じようにりかさんの命は、人形のりかさんに宿をとった。それが祖母の説明だった。りかさんの命はまだ働いている。
 
 三人にとって、蓉子の話は理解を超えたものでした。とくに合理主義者のマーガレットには蓉子の話を受け入れることは、とても出来ませんでした。でも次第に皆はりかさんの存在に馴染み、親しみを感じるようになっていきます。そして、物語が進むにつれ、りかさんを作った人形師、澄月を介して紀久と与季子は先祖がつながっていることもわかってきます。
 染織という共通項で結ばれた女性たちの織りなすストーリーですが、絵画の色の溶け合う世界でなく、縦横の異なる色彩の糸が屹立し集合する染織が象徴しているように、蓉子を始め、四人の女性の個性が鮮やかに書き分けられている事もこの作品の魅力です。創造のための手仕事に心身を傾注する女性たちの姿は、僕の敬愛する作家、芝木好子さんの作品の主人公達を思い起こさせました。

伝えること 伝えること 伝えること
大きな失敗小さな成功 挑戦や企て
生きて生活していればそれだけで何かが伝わっていく

私はいつか、人は何かを探すために生きるんだといいましたね。でも本当はそうじゃなかった。
人はきっと、日常を生き抜くために生まれるのです。
そしてそのことを伝えるために。


伝統というものが大げさなことではなく、日常的な生活のレベルでも考えられるのではないかという気がしました。
 


4.りかさん(1999)
 新潮文庫

 「からくりからくさ」の中心人物である蓉子(ようこ)と市松人形のりかさんとが出会ったころの出来事が描かれています。文庫版には、さらに「からくりからくさ」の後日談「ミケルの庭」が追加収録されています。
 リカちゃん人形が欲しかった小学生のようこが、雛(ひな)祭りにおばあちゃんからプレゼントされたのは、真っ黒な髪の市松人形のりかさんでした。がっかりしたようこでしたが、おばあさんの書いた説明書に従って世話をしているうちにだんだんと好きになり、1週間目にりかさんはようこに話しかけるようになります。
 りかさんは祈る力のある人形で、周囲の人形の思いを理解することができました。本書に収録されている二つの巻、ようこの家や、友達の登美子ちゃんの家の雛人形たちの思いをめぐる「養子冠の巻」、雛人形の台座に納められていた黒焦げの西洋人形にまつわる悲しい過去と癒しの物語「アビゲイルの巻」では、りかさんを仲立ちとして、人形たちに秘められた様々な物語が明かされます。

 少女時代の人形との関係というのは、女性の人格形成にとって少なからぬ役割を果たしているのではないかと、僕にも想像ができるのだけど、おばあさんはようこに人形の役割について次のように語っています。

 「でも、人形の本当の使命は生きている人間の、強すぎる気持をとんとん整理してあげることにある。木々の葉っぱが夜の空気を露に返すようにね」
 「ほら、ノートに濃いサインペンで書いて、下の紙に移ることがあるだろう。濃い色の染めを薄い色のものといっしょに洗濯すると色が移ることがあるだろう。それと同じ。あんまり強すぎる思いは、その人の形からはみ出して、そばにいる気持の薄い人の形に移ることがある。それが人形」


 さらに続けて、いい人形は、吸い取り紙のように感情の濁りの部分だけを吸い取るけど、修練を積んでいない人形は、持ち主の生気まで吸い取ったり、濁りの部分だけ持ち主に残したりしてしまうのだと、ようこに語っています。

 ようこの染織との出会いも描かれている本作品は、「からくりからくさ」を導くファンタジーとして位置づけられます。
 この作品では、人形のりかさんがようこに話かけていますが、それが実際に起きたことかどうかということは結局どちらでもいいのかなという気がします。少女にとって人形とは、自分の思いを無条件に受けとめてくれる存在であるだろうから、きっと彼女にとっては人形は物ではなく、真実生きているのであって、梨木さんはこの作品で、少女が人形に思いをかけることによって内面的に成長していくことを象徴的に示したかったのかもしれません。「からくりからくさ」でのりかさんが、ようこに話しかけていないのは、そうした少女の成長の媒体としての役目が終わったからなのではないだろうか。

5.絵本「マジョモリ」(2003)、「ペンキや」(2002)
 
 絵本といっても、使われている漢字のレベルから考えると、少なくても中学生以上を対象としているのではないかと思われます。たしかに文章はやさしいけれど、梨木さんの思いとしては、子供向けの作品という限定した位置付けではなくて、画家とのコラボレーションにより、表現の深化を目指したということなのでしょう。

○「マジョモリ」 絵:早川司寿乃 作:梨木香歩 
 理論社 
 ある朝、つばきが目を覚ますと、机の上に手紙が置いてありました。マジョモリへの招待状でした。マジョモリは「御陵(ごりょう)」と呼ばれる暗い森で、誰も入ってはいけないところでした。空色の蔓(つる)に導かれたつばきはマジョモリの奥で、古代の衣に身にまとった不思議な女のひと、ハナさんに出会います。おかあさんが、ハナさんのことを知っているみたいだったのが、つばきには意外でした。

 母と娘のものがたりということで、梨木さんの小説作品と共通のテーマを扱っています。つばきにとっても、母であるふたばにとっても、ハナさんと過ごしたお茶のひとときは、これからもずっと忘れない永遠の時間として記憶されるにちがいないと思います。つばきもいつか母になり、自分の娘にマジョモリから招待状が届くのを待ちわびることになるのでしょう。そのときには、きっとその頃にはもう忘れてしまっている少女の自分を束の間のあいだ、マジョモリでふたたび生きることができるだろうから。
 早川さんは上に紹介している梨木作品の文庫のカバー絵のすべてを手がけていて、この絵本でも緑を基調とした淡い色調の、ほっそりした輪郭線をもった絵は、とてもすっきりした印象を受けます。三人が出会うマジョモリの明るい異空間と日常の世界が違和感なくつながっている感じがとてもよかった。

○「ペンキや」 絵:出久根育 作:梨木香歩
 理論社
 こちらは父と息子のものがたりということになります。
 しんやのおとうさんはペンキやで、しんやが生まれる前にフランスに渡り、しんやとは一度も会わずに向こうで亡くなっていました。しんやもペンキやになり、お客さんのほんとうに好きな色を塗れたらと願っていましたが、なかなか満足できずにいました。しんやは、おとうさんの墓を訪ねにフランスに渡ります。お金がないので、フランスに行く船の中でもいろんな仕事をしました。ある霧の午後、甲板掃除をしていたしんやの前に女のひとが現われ、いつかしんやにこの船をユトリロの白で塗って欲しいと言いました。

喜びや悲しみ 浮き浮きした気持ちや寂しい気持ち 怒りやあきらめ みんな入った ユトリロの白 世の中の濁りも美しさもはかなさも

 父と息子は一度も会うことはなかったけれど、それでも父が抱いていた信念は確実に息子へと受け継がれていくということ、そういう無意識の不思議さがきっとこの世にはあるにちがいないということが梨木さんの思いであり、願いなのでしょう。過去から未来へと続く命の流れに意味をもたせるとするならば、それは大切な何かを未来の世代に伝え続けるということにあるのかなと思います。
 出久根さんの絵は、はけのタッチを生かしたものです。しんやが甲板から眺める海、朝焼けから夕なぎ、夜へと変化する色調が美しい。


6.春になったら苺を摘みに(2002)
 新潮文庫
 梨木さんが英国に半年間滞在した際、家探しが一段落して、20年前の学生のときに下宿したウエスト夫人を訪ねたときのエピソードを中心とした書き下ろしのエッセイです。
 小鳥やリスなどの小動物が家の庭に出入りする英国の美しい自然環境の描写も印象的ですが、語られる主題は人間です。梨木さんが知り合った英国人、米国人は、いずれも個性的な面々ですが、それは自分の生き方や主張に自信を持っていること(持たないでは生き難いということもある)から自ずと生まれ出てきているもののようです。

 梨木さんと同じ下宿人だったジョー、彼女は地元のグラマースクールの教師をしていました。トラブルを抱えている人には全力で向き合い、全力で相手を現在の苦境から救おうとする彼女には、かつて彼女の小切手帳を盗んでベトナムへ旅行に行き、それから音信不通になっていたボーイフレンドがいましたが、彼が突然舞い戻ってきて、波乱を巻き起こします。
 同じく夫人の下宿に寄留していた誇り高きナイジェリア人の家族の武勇伝の数々。
 アメリカ生まれのウエスト夫人の父が、戦争中、徴兵されながら武器を持つことを断固拒否して、軍の監獄に入れられた話。軍事法廷が開かれ、結果として釈放された彼は、懲役の代わりに平和主義者の集まりと一緒に難民のための小屋を造る仕事をやることになったという。話を聞いた梨木さんも感激したように、アメリカという国の懐の深さを認識させられるエピソードですが、一方では戦時中に有無を言わさず強制的に収容された日系の人々の話も紹介されています。
 カナダ旅行での列車の老車掌とのトラブルのエピソード。梨木さんは、頑固な車掌の態度に東洋人蔑視の気配を感じますが、最後に話しかけた梨木さんの一言に対する彼の反応を見て、不器用な人なんだという思いを抱きます。人種的な偏見については、「赤毛のアン」シリーズを書いたL.M.モンゴメリについても言及していて、興味深いです。
 ウエスト夫人に誘われ、ニューヨークに住む彼女の息子の家で過ごした家族ぐるみのクリスマス。
 そしてエッセイの主役のウエスト夫人。敬虔なクリスチャン(クウェーカー教徒)である夫人は、トラブル・メーカーのため誰も受け入れたがらないナイジェリアの家族やら、イスラム圏の人々やらを自ら進んで引き受け、彼らが引き起こすトラブルにいつも悩まされ、ため息をつき、頭を抱えながらも、彼らを理解はできないが受け容れるという態度を崩しませんでした。
 英国にせよ、米国にせよ、異人種、異文化との共存が必須な社会では、なあなあの協調性を主体とした日本とは違った形の協調性が求められるのでしょう。互いに徹底的に自己主張をしながら、認め合えるところは認め、合わないところは合わないままで、とりあえず受け容れること。
 梨木さんの作品を流れているコスモポリタン的な精神は、英国での留学時代に培われた部分が大であったに違いないと思いました。

エッセイのタイトルは、最近のウエスト夫人からの手紙の文章から採られています。

 いつものように、ドライブにも行きましょう。春になったら、苺を摘みに。それから水仙やブルーベルが咲き乱れる、あの川べりに。きっとまた、カモの雛たちが走り回っているわ。私たちはまたパンくずを持って親になった去年の雛たちの子どもたちにあげるのよ。私たちはそういうことを毎年続けてきたのです。毎年続けていくのです.......。



7. 村田エフェンディ滞土録(2004)
 角川文庫
私の スタンブール
 私の 青春の日々
 これは私の 芯なる物語


 1899年(明治22年)に、土耳古(トルコ)に考古学研究のために留学した青年、村田のスタンブール滞在録です。"エフェンディ"とは、学問を修めた人物に対する一種の敬称で、日本でいう"先生"と同様の意味とのこと。
 スタンブールのディクスン夫人の下宿屋には、様々な国籍、宗教を持つ人間が滞在していました。屋敷の女主人ディクスン夫人は英国人、考古学者のオットーはドイツ人、遺跡の発掘物の調査をしている研究者のディミィトリスはギリシア人、下宿のコック兼雑用係のムハンマドはトルコ人、ムハンマドに拾われたオウム(なかなかあなどれないキャラクターです)は国籍不明、という具合でした。
 海外は、これが初めてであった村田君は、最初はとまどいながら、徐々に下宿のコスモポリタン的雰囲気になじんでいきます。異国の文化、習慣に驚きながらも理解しようと努め、異文化との対比から、翻(ひるがえ)って日本文化への新たな思いを抱き、さらに主義主張・民族を超えた友情を育んでいく村田君の若者らしい柔軟な精神が、とても爽やかで気持がいい。

 印象深いエピソードの一つとして、文化の成熟と退廃をめぐるディミィトリスとの会話がありました。村田君は、ディミィトリスから、ヨーロッパ文化はギリシアやローマ文化に代表されるように、発展、成熟、爛熟、腐敗、解体を繰り返しているのだという話を聞き、貧しい日本では豊かな退廃など想像できないと考えます。しかしながら、百年経った現在の日本は、かつてギリシアやローマ文化がたどった退廃への道を歩んでいると言って過言でないでしょう。ディミィトリスが、「人の世は成熟し退廃する、それを繰り返してゆくだけなのだろうか」という質問をある人にしたときの回答は、真実に近いと思われるだけ、なお一層哀しい思いにとらわれます。

 「ええ、いつまでも繰り返すでしょう。でもその度に、新しい何かが生まれる。それがまた滅びるにしても、少しづつ少しづつ、その型も変化してゆくでしょう。全く同じように見えていてもその中で何かが消え去り何かが生まれている。そうでなければ何故繰り返すのでしょう。繰り返す余地があるからです。人は過ちを繰り返す。繰り返すことで何度も何度も学ばねばならない。人が繰り返さなくなったとき、それは全ての終焉です」

 異なる宗教の対立は人間だけでなく神々にも及ぶようで、日本のお稲荷さんと現地神との騒動という、いかにも梨木さんの作品らしい怪異な出来事もありました。終章では、「家守綺譚」の主要人物も登場するので、理解のためには先に「家守綺譚」を読むことをおすすめします。

8.家守綺譚(2004)
新潮文庫

 このあいだ古書店で、書名に誘われて買った中島義道著「人生を<半分>降りる」(1997)を読み、そういえば「家守綺譚」がとてもよかったのも、語り手の学士、綿貫征四郎さんの半分隠遁(いんとん)しているかのような暮らしぶりに自分は惹かれたのではないかと思い当たりました。
 中島さんの著書に関しては、"仕事など適当にサボって好きなように暮したほうがいいよ"風なメッセージを期待していたのだけど、副題に"哲学的生き方のすすめ"とあり(衝動買いだったので見落としていた)、そんな気楽なものではありませんでした。

 自分の時間(余暇)を確保し、ボンヤリ過ごすのではありません。周辺のバンガローで、ハンモックに揺られてウトウトするのではありません(かなり魅力的ですけれど)。といって、アリストテレスやカントを読めというのではなく、まもなくやって来る「死」について考え、これまでの「人生」についてトコトン考える。この仕事こそが、あなたにとっては、首都移転や21世紀の資源問題や人口問題よりずっと重要だ、というのです。

 まあそんなことで、これはやはり主人公の綿貫さんの、"この世から"半分降りた風の「家守綺譚」がいいなと、もう一度読み返してみました(今回が三度目)。
 綿貫さんは、トルコ留学している村田さん(この前に紹介している「村田エフェンディ滞土録」を参照のこと)の友人で、村田さんはたいそう勤勉ですが、綿貫さんのほうは、友人の高堂が湖のボート事故で死んだ後、彼の父親から主のいない家の守をしてくれと頼まれたのをこれ幸いと、嫌気がさしていた英語学校の講師を辞め、本分の物書きに専心することになります。
 家守となった綿貫さんの周辺では、死んだはずの高堂が掛け軸から現われるのを手始めに、奇々怪々な出来事が次から次へと起こります。庭のサルスベリに惚れられるは、タヌキに化かされるは、木蓮が竜を孕(はら)むは、河童や人魚や小鬼が出没するはで息つく暇もないほど。
 でもなぜかとても心地よく落ち着いた気分になるのは、28の章すべてに植物の名が付せられているように、植物によって示される静的イメージがこの作品世界の主体であるためなのでしょう。
 静かで俗世の憂(うれ)いもほとんどなさそうで、忠犬(超犬か)ゴローもいて、うらやましいかぎりの綿貫さんの半隠遁暮らしではありますが、本物の桃源郷へのお誘いをきっぱりと断った綿貫さんの精神は、100年後の誰かのように単なる怠け志向ではありませんでした。 

 確かに非常に心惹かれるものがある。
 日がな一日、憂いなくいられる。それは理想の生活ではないかと。だが結局、その優雅が私の性分に合わんのです。私は与えられる理想より、刻苦して自力で掴む理想を求めているのだ。こういう生活は、私の精神を養わない。



9.沼地のある森を抜けて(2005)
 新潮文庫

 沼はわたしどもにとっては、母であり、また命そのものでした。私どもは、いってみれば、沼から生まれ、沼へ帰るのです。

 両親を交通事故で亡くし、一人で暮らしていた久美は、急死した叔母、時子が遺した先祖伝来のぬか床を受け継ぎますが、ある日ぬか床に生じた卵から少年が現れ、驚いた久美は、ぬか床に絡む彼女のファミリー・ヒストリーを調べ始めます。もうひとりの叔母、加世子や幼友達のフリオの話、時子の日記、久美と同じ会社の発酵科学研究所に勤める風野との交流などを経て、久美はぬか床を祖先のルーツである島に返すことを決意します。
 ぬか床の継承にイメージされるのは、梨木さんが処女作「西の魔女が死んだ」以来、「裏庭」、「からくりからくさ」で描いてきた、祖母から母へ、母から娘へと綿々と継がれていく命の流れのテーマですが、それとともに、"沼の人"のサーガを通して、性(ジェンダー)とは、さらには種の存続にとっての孤の生の意味とは、という壮大なテーマにまで及んでいます。
 扱っているテーマは壮大でも、ぬか床をめぐるとんでもない出来事の数々にめげずに柔軟に対処する久美の行動力や、"男をやめた"風野と"女をいちおりた"久美との関係や、風野が飼っている変形菌のタモツくんやアヤノちゃんなど、梨木さんらしいユーモラスなエピソードにも欠けていなくて、なごめます。
 生の営みの究極の目的が、この世界に最初に生れた細胞の、ずっと未来永劫、自分が「在り続ける」という夢を支えることであったとしても、それでもなお「孤」を生かす道はあるはずだと思う久美の直感を共有したい。


10.ピスタチオ(2010)

 人の世の現実的な営みなど、誰がどう生きたか、ということを直感的に語ろうとするとき、たいして重要なことではない。物語が真実なのだ。死者の納得できる物語こそが、きっと。その人の人生に降った雨滴や吹いた風を受け止めるだけの、深い襞を持った物語が。

 もうすぐ40歳になる棚は11年前、勤めていた出版社を辞めケニアのナイロビで数ヶ月を過ごし、帰国してからは武蔵野に住みフリーライターの仕事をしています。小説の前半は、棚と暮らす雌犬のマースの子宮に大きな腫瘍が見つかり、良性であることが判明したものの手術で切除することになるエピソードを中心に棚の周辺が描かれています。
 そして後半では、マースの手術後、旅雑誌の依頼により企画取材のためアフリカのウガンダに向かった棚が遭遇する出来事が描かれています。
 前半、後半を結び付けているのがアフリカの呪術世界であり、マースが孕(はら)んだ腫瘍、11年前に棚がケニアで会ったアフリカの部族のフィールドリサーチをしていた社会学者・片山海里、反政府組織に子供の頃に誘拐された姉を捜す双子の妹・ナカトなどをめぐり、"アフリカの真珠"と称されるウガンダの風景を背景にストーリーが展開していきます。
 物語に関連するスピリチュアルな要素として、呪術医に関する膨大なフィールドワークを残した片山本人と彼の周辺の二人の相次ぐ死、アフリカの伝統医が病気の原因・症状であるとするダバという状態、強い力をもった精霊・ジンナジュ、などがあります。棚はそうしたスピリチュアルなものを全面的に認めることはできませんでしたが、面会した呪術医の言葉や、自身がナカトの姉を探索する過程で受けた啓示により、次第に受け入れるようになっていきます。
 小説の最後には棚がアフリカでの体験に触発され、帰国してから書き上げた、鳥検番を訪れる少年ピスタチオを巡る短い物語「ピスタチオ ― 死者の眠りのために」が置かれています。「死者には、それを抱いて眠るための物語が必要」という片山の言葉に応えるように、これからも棚は死者の眠りのための物語を綴っていくのだと思います。
 本書の全体に鳥のイメージが目立ちますが、梨木さんは北海道やロシアの渡り鳥の飛来地を訪ね歩くエッセイ「渡りの足跡」を同時期に出しています。ピスタチオの物語には、"鳥は死後の人間の霊そのもの"という言葉があり、梨木さんは彼岸と此岸を行き来する象徴としての鳥の存在に関心を向けているのかもしれません。鳥好きの僕にとっても今後の作品が楽しみです。


11.雪と珊瑚と(2012)

  梨木さんは僕のお気に入りの作家の一人ですが、最新長編小説は「家守綺譚」や「沼地のある森を抜けて」のようなファンタジーではなく、シングルマザーの自立物語でした。
 21歳の珊瑚は20歳のときに結婚しましたが1年そこそこで離婚し、まだ1歳に満たない赤ん坊の雪をひとりで育てていました。いよいよ蓄えも少なくなり、雪を預けて働くしかないと考えた珊瑚は、「赤ちゃん、お預かりします」の貼り紙を見て知ったひとり暮らしの年配の女性、くららに雪を預け、結婚前に働いていたパン屋に復職します。ところが、店主が海外に移住するため、店が閉店することになり、進退窮まった珊瑚は、くららが作ってくれた、おかずの残りを使った「おかずケーキ」やアトピーの子供のための「メロンパンもどき」などの手料理をヒントに、心と身体にやさしい惣菜を提供するカフェをオープンさせようと決意します。自分の店を開くという珊瑚の頑張りのエネルギーの元となったのは、くららから学んだ「食」の力でした。昔、修道院にいたという、くららの、厳しい経験により培った信念に基く言葉が珊瑚に、困難を乗り越えて突き進む勇気を与えたのだと思います。

これから珊瑚さんがやろうとしている食べもののことを扱う仕事って、本当に大事だと思いますよ。一番確実に人に元気をあたえる。

 どんな絶望的な状況からでも、人には潜在的に復興しようと立ち上がる力がある。その試みは、いつか、必ずなされる。でも、それを、現実的な足場から確実なものにしていくのは温かい飲み物や食べ物 ― スープでもお茶でも、たとえ一杯のさ湯でも。


 珊瑚のように商売についてまったくの素人が起業しようというのは大変なことですが、資金融資の手続から店舗やアルバイト店員の確保、食材の調達、メニューの準備などの課題に取り組み、くららや有機栽培の野菜を育てている貴行、時生を始めとする彼女をサポートする周りの人々の応援を受けながら、一歩一歩、珊瑚の思い描く惣菜カフェ『雪と珊瑚』が現実化していきます。そして、そんな周囲の騒ぎとは関係なく着実に成長していく雪の姿も描かれています。
 一見、女性による起業成功物語のような展開ですが、開店後の店の経営、娘の珊瑚を愛していなかった母、別れた夫とその両親との新たな関係など、珊瑚の未来にはまだこれからも多くの試練が予感されます。

すべてのことに解決がつかないまま、けれど生活はそんなことはお構いなしに次から次へと続いていく。朝が来て夜が来て確実に日々は流れる。

 どんな困難がもたらされようと、珊瑚はくららや周りの人たちからもらった生きていく力により道を切り開いていくのでしょう。
 惣菜カフェのメニューのレシピが本文中に示されているので、健康志向の料理に関心のある読者にはとてもうれしい小説でしょう。たとえば、おかずケーキを始めとして、キャベツの外葉を使ったスープやフィッシュ・ケーキ、大根ダシのスープ、タマネギのスープ、スパニッシュオムレツ、アドリア海のタコサラダ、エビとブロッコリなどがあります。

140文字紹介:Twitter投稿
海うそ(2014)
昭和の初め、地理学者の秋野は南九州の島へ調査に赴きます。
近しい人を相次いで亡くした秋野にとって、豊穣な自然を有し、修験道の霊山があった島は、生者と死者を繋ぐ地でもあったのかもしれません。
50年後、島を再訪した彼が抱いた想いとは。


参考Webサイト

梨木香歩 関連出版


主要作品リスト   

HOME l  PROFILE l 海外作家国内作家 l ジャズ l ピアノ音楽 l ポップス他 l 現代音楽 l 美術館映画 l 散歩 l 雑記TWITTER