村上春樹 1Q84特集



「1Q84」と他作家の作品との繋がり(BOOK1、BOOK2より)

 「1Q84」と共通項を持つ他作家の作品を検討することにより、「1Q84」を別の角度から照らし出し、その理解を深めることができるのではないかと思います。
 他作家の作品との繋がりを考える上で、「1Q84」の小説構造上の特徴として挙げられる"小説をめぐる小説"であるとの観点から、類似の構造を持つ以下の4人の作家の作品を検討してみました。
 ディック、アーヴィング、オースターは村上さんと縁の深い作家で、とくにアーヴィング、オースターは同時代の現役作家であり、相互に影響を及ぼしているのは間違いないでしょう。村上さんが福永武彦の作品を読んでいるかどうかは??です。

 上記のほかにも海外の注目すべき現代作家による"小説をめぐる小説"として以下が思い浮かびます。

Already with thee! tender is the night,
And haply the Queen-Moon is on her throne,
Cluster'd around by all her starry Fays;
ああ、やっと今、私はお前と一緒になれた!
この夜の何とやさしいことか!
恐らくは妖精のような星の群れにかしずかれ、
月も女王然として夜空に君臨しているよう

 「Ode to a Nightingale 夜鳴鶯の賦」より/キーツ「イギリス名詩選/平井正穂編」より
 引用詩についてのコメント

 以下を紹介しています。クリックでリンクします。
  1. 「1Q84」の小説構造
    1) "小説をめぐる小説"としての要点
    2) 「1Q84」の創作意図
    3) その他の小説構造上の特徴
  2. フィリップ・K・ディックの作品
  3. 「ガープの世界」(1978)/ジョン・アーヴィング
  4. 「Oracle Night」(2003)/ポール・オースター
  5. 「死の島」(1971)/福永武彦

 1. 「1Q84」の小説構造
 1)"小説をめぐる小説"としての要点 
  • 教養小説的側面(*)
     天吾は小説家志望であり、ゴーストライターとしてふかえりが紡(つむ)いだ物語「空気さなぎ」を書き直す作業を通じて作家として成長したことを自覚し、今まで書いていた原稿を破棄し、あらたに二つの月が懸かる世界を舞台とした長編小説を書き始めることになります。こうした意味で、「1Q84」を天吾を主人公とした教養小説として捉えることができます。
    (*)教養小説とは、(多くの場合幼年期から成年にかけて)主人公の精神的、心理的、または社会的な発展や精神形成を描く小説のことである。例として「車輪の下」/ヘッセ、「人間の絆」/モーム、「三四郎」/夏目漱石など。(Wikipediaより)
     
  • メタフィクション
     天吾がリライトした小説「空気さなぎ」において、彼が付け加えた二つの月や空気さなぎのディテールが1Q84世界で現実化しているというメタフィクションとなっています。「1Q84」という小説全体を、天吾によってまさに書かれようとしている長編小説そのものとして設定され得るというメタフィクションとしてさらに踏み込んだ解釈も可能だと思います。
     
  • 天吾によって書かれるであろう物語
     天吾の長編小説が具体的にどのような内容であるかは示されていませんが、彼が少年の時に出会い、今も愛している女性の物語が描かれるのだと思います。そしてその小説はおそらく以下のようなイメージであろうと僕は想像しています。

     これまでとは違う小説を書こう、と淳平は思う。夜が明けてあたりが明るくなり、その光の中で愛する人々をしっかりと抱きしめることを、誰かが夢見て待ちわびているような、そんな小説を。   「蜂蜜パイ」(「神の子どもたちはみな踊る」所収)

 2)「1Q84」の創作意図

 多様な読みを可能とする作品であり、基本的にどのような解釈も自由であると考えますが、村上さんの創作意図が以下であったことは認識しておく必要があると思います。

 オウム事件は現代社会における「倫理」とは何かという、大きな問題をわれわれに突きつけた。罪を犯す人と犯さない人とを隔てる壁は我々が考えているより薄い。仮説の中に現実があり、現実の中に仮説がある。体制の中に反体制があり、反体制の中に体制がある。そのような現代社会のシステム全体を小説にしたかった。

 同時に僕は、この時代の世相全体を立体的に描く僕なりの「総合小説」を書きたかった。純文学というジャンルを超えて、様々なアプローチをとり、たくさん引き出しを確保して、今ある時代の空気の中に、人間の生命を埋め込めればと思った。 
(読売新聞インタビュー '09年6/16〜6/18掲載)


 3)その他の小説構造上の特徴
  • 音楽を小説構造の核とする小説
    「バッハの平均律クラビーア曲集のフォーマットに則(のっと)って、長調と短調、青豆と天吾の話を交互に書こう、と決めていた。」 (読売新聞インタビュー)

    『平均律クラヴィーア曲集』は数学者にとって、まさに天上の音楽である。
    12音階すべてを均等に使って、長調と短調でそれぞれに前奏曲とフーガが作られている。全部で24曲。第一巻と第二巻を合わせて48曲。完全なサイクルがそこに形成される。 
    ( 「1Q84」BOOK1 P368)

     BOOK1、BOOK2の各巻24章の構成も平均律の各巻24曲構成に倣(なら)っています。平均律クラヴィーア曲集にはBOOK3はなく、したがって執筆時点ではBOOK2で完結の構想だったと考えるのが自然でしょう。

     またヤナーチェックの「シンフォニエッタ」は天吾の世界を象徴するとともに、小説全体の基調をも方向づけていると考えられます。
    この曲は金管楽器による祝祭的な音楽で、小説の記述にあるように体育大会の為のファンファーレをモチーフに作曲されたもので、ヤナーチェクは「勝利を目指して戦う現代の自由人の、精神的な美や歓喜、勇気や決意といったもの」を表現する目論見から本作を作曲したとのことです(Wikipediaより)。

     さらにエピグラフに掲げられたスタンダード・ソング「It's only a paper moon」の歌詞は1Q84世界に懸かる二つめの月を暗示していると同時に、このラブソングの軽い曲調・歌詞にもやはり祝祭的な雰囲気が感じられます。

    ボール紙の海に浮かぶ
    紙の月でも
    私を信じてくれたなら
    本物のお月様

    あなたの愛がなければ
    何もかもにせもの
    愛がなければ
    安っぽいメロディ
    ここは見世物の世界
    何から何までつくりもの
    でも私を信じてくれたなら
    すべてが本物になる
                                            (エピグラフは右端の部分のみ)
     「シンフォニエッタ」と「It's only a paper moon」を小説のイメージ曲に設定することにより、この小説が基本的に祝祭的な物語であることを宣言しているのではないか。どんなに結末が暗く見えようと、決してそうはならないのだとする作者のメッセージがこめられているのではないでしょうか。
  • 恋愛小説
    10歳で出会って離れ離れになった30歳の男女が、互いを探し求める話にしよう、そんな単純な話をできるだけ長く複雑にしてやろうと。2006年に書き始めた時点で頭にあったのはそれだけ。 (読売新聞インタビュー)

     天吾と青豆の至上の愛が小説「1Q84」の中心テーマとなっているのは間違いありませんが、さらに他者を愛することが自らの精神(魂)を救うことにつながることを示しています。

    「僕には一人の友達もいない。ただの一人もです。そしてなによりも、自分自身を愛することすらできない。なぜ自分自身を愛することができないのか? それは他者を愛することができないからです。人は誰かを愛することによって、そして誰かから愛されることによって、それらの行為を通して自分自身を愛する方法を知るのです。僕の言っていることはわかりますか? 誰かを愛することのできないものに、自分を正しく愛することなんかできません」 (天吾の父親への言葉「1Q84」BOOK2 P178)

    「一人でもいいから、心から誰かを愛することができれば、人生には救いがある。たとえその人と一緒になることができなくても」 
    (青豆の言葉「1Q84」BOOK1 P342)
  • ハードボイルド小説
     暗殺者としての青豆の活躍シーンを中心として、全体にハードボイルドな雰囲気に満ちています。
    村上さん自身「ロング・グッドバイ」を翻訳するほど心酔しているハードボイルド小説の代表的作家、レイモンド・チャンドラーの「大いなる眠り」へのオマージュと考えられる場面が登場しています。
  • 家族をめぐる小説
     天吾、青豆とも親の犠牲となった不幸な幼年期のトラウマを抱え、彼らの行動に影響を与えています。天吾に関しては、長い間絶縁していた父とのわだかまりの解消、幼少時の記憶にかかわる悪夢との決別も描かれています。
  • 読者の想像力を要請する小説 
     テーゼやメッセージが、表現しづらい魂の部分をわかりやすく言語化してすぐに心に入り込むものならば、小説家は表現しづらいものの外周を言葉でしっかり固めて作品を作り、丸ごとを読む人に引き渡す。そんな違いがあるだろう。読んでいるうちに読者が、作品の中に小説家が言葉でくるみ込んでいる真実を発見してくれれば、こんなにうれしいことはない。 (読売新聞インタビュー)

     BOOK2で完結することを前提に考えるとすると、たとえば "リトルピープル" や "空気さなぎ" の解釈、ラストの青豆の死あるいは生、さらには天吾との再会の可能性など多くの事柄が読者の想像力に委ねられていると考えられます。
     "読者が最後までミステリアスな疑問符のプールの中に取り残されたままになることが著者の意図したことなのかもしれないが"、そこからさらに物語を牽引するために読者の想像力の関与が強く要請されているのだと思います。
  • 敬愛する作家、作曲家、作品へのオマージュに満ちた小説
     この小説を過去の作品群の集大成と位置づけていいのではないかと思います。そうであるなら「1Q84」に含まれる多くの作家、作曲家、作品などへの言及・暗示は、村上さんがそれらに捧げるオマージュとして解釈され得るのではないかと考えられます。
    暗示されていると思われたのはチャンドラーの他、タルコフスキーの映画や後述するディックとアーヴィングなどですが、他にもあると思います。
     
     冒頭のキーツ(1795-1821)の詩は、オマージュの例としてではなく個人的な連想として掲げました。引用はフィッツジェラルドの長編「夜はやさし Tender is the Night」(1934)のタイトルがとられている個所です。キーツはスコット・フィッツジェラルドがとくに好んでいた詩人で、娘に宛てた手紙の中で、この詩を読み返すたびに涙があふれると語っています。
    村上さんは、いちばん好きな彼の作品は? と訊ねられ、「グレート・ギャツビー」は文句なく素晴らしいと思う、でも個人的にということであれば長編なら「夜はやさし」が好き、と答えています(「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」より)。
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 2. フィリップ・K・ディックの作品
   
 
フォクナーとフィリップ・K・ディックの小説は神経がある種のくたびれかたをしているときに読むと、とても上手く理解できる。僕はそういう時期がくるとかならずどちらかの小説を読むことにしている。  「ダンス・ダンス・ダンス」

 列車が停まった小さな町を散歩して葡萄を一袋とフィリップ・K・ディックの文庫本を3冊買い、座席に戻って葡萄を食べながらのんびりと読書をした。
(中略)
 おかげで僕の持っている『火星のタイム・スリップ』はいたるところに葡萄のしみがついている。 
「ランゲルハンス島の午後」

 アメリカのカルトSF作家フィリップ.K.ディック(1928-1982)の小説世界ではパラレルワールドや現実崩壊の場面が頻出します。また、青豆が顔をしかめると、表情が大変貌をとげるという現実ではちょっとありえない設定などもいかにもディック的と言えます。
ディックの作品の中で、小説を重要なテーマとし、パラレルワールドとの繋がりもある「高い城の男」と現実崩壊をテーマとした「流れよわが涙、と警官は言った」を紹介します。
   
1)「高い城の男」(1962)
 第2次世界大戦で、もしもドイツと日本が勝利を収めていたらという世界が描かれています。アメリカは東西に分割され、東はドイツ、西は日本に統治されていて、舞台となる西部では中国の古い書物「易経」が行動の指針となっていました。この世界でベストセラーとなっている本「イナゴ身重く横たわる」には、第2次世界大戦で、もしもドイツと日本が負けていたら世界はどうなったが描かれていました。本を読んで感動した女性が著者を訪ねると、彼は「イナゴ身重く横たわる」が「易経」の託宣により書かれたこと、さらにこの本に書かれた世界こそが真の現実であることを告げます。

 「1Q84」では、青豆が首都高の避難口を通路として迷い込んだパラレルワールドは小説「空気さなぎ」の世界を反映していました。一方「高い城の男」では、逆に現実の世界がベストセラー小説の中で示されています。

2)「流れよわが涙、と警官は言った」(1974)
 TVスターの主人公ジェイスンが、ある事件をきっかけとして彼のIDが存在しない世界、つまり彼のことを誰も知らない世界に入り込んでしまい、そこから抜け出そうと悪戦苦闘するストーリー展開です。最後にジェイスンが彼のファンである女性の精神世界(潜在意識)に取り込まれていたことが明らかになります。

 青豆を1Q84世界に導いたのが、心の深部で彼女を強く希求する天吾の精神(魂)であったことを喚起するストーリーです。さきがけのリーダーの言葉が示唆するように天吾のレシヴァとしての能力が関与しているのか。あるいは1Q84世界は求め合う天吾と青豆の二つの魂が出会う場所として生起した世界であるのかもしれません。その世界の二つの月は天吾と青豆を象徴しているのでしょう。

 なお書名の"流れよわが涙"は、16世紀のイギリスの作曲家ダウランドの同名曲から取られています。

 流れよ、わが涙。これまでに作られた抽象音楽の最初の作品だ。ジョン・ダウランドの<リュート歌曲集第2巻>1600年、に収められている。家に帰ったら、あの大型の新しい4チャンネル・ステレオ・プレイヤーでこれをかけよう。  「流れよわが涙、と警官は言った」

 老婦人はトレーニング用のジャージの上下に身を包み、読書用の椅子に座り、ジョン・ダウランドの器楽合奏曲『ラクリメ』を聴きながら本を読んでいた。彼女の愛好する曲だった。青豆も何度も聴かされて、そのメロディーを覚えていた。  
(「1Q84」BOOK1 P382)

 リュート歌曲「流れよ、わが涙」を器楽合奏曲にしたのが「ラクリメ(涙のパヴァーヌ)」です。ディックの小説を意識した村上さんのオマージュとしての表現ではないでしょうか。


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 3. 「ガープの世界」(1978)/ジョン・アーヴィング(1942− )
 
 ジョン・アーヴィングの小説が小説家としての僕に与えてくれたものは数多くある。そのひとつは「小説は力を持たなくてはいけない」ということである。もっと簡単に言えば小説は読者を振りまわさなければいけないのだ。それも力まかせに暴力的に振りまわすのではなく、読者の中に内在する力を利用して振りまわすのである。つまり小説の力とは、読者の力を有効に喚起する力のことである。その力がなければどんな美しい文章も巧みな物語も崇高な思想も、小説として人をひきつけることはできない。 
  「ガープの世界」あとがき/村上春樹

 「1Q84」の特徴として挙げた"読者の想像力を要請する小説"につながる言葉だと思います。

 1)あらすじ
 ガープの母ジェニーは男に対し嫌悪を抱いていたが、子供が欲しい彼女は第二次世界大戦中看護婦として勤務していた病院で、瀕死の重傷を負った兵士を半ば強姦しガープを身ごもります。成長したガープは文学少女のヘレンと出会って一目ぼれし、彼女の期待に応えるため作家になることを決意します。やがて作家としてのデビューを果たしたガープはヘレンと結婚し、一方ジェニーは女性運動の旗手に祭り上げられます。そして大学の教師となったヘレンと、主夫となり二人の息子たちの面倒を見ながら小説を書くガープの身辺に降りかかる出来事の数々。
 ガープの周囲、それと本文中に挿入されたガープの小説の中では、暴力・事故・自損による死傷者が累々といった風で、普通ならめげてしまいそうだけど、ジェニー、ガープを始めとする登場人物たちは、困難な現実を受け入れ、その先に希望を見出す持ち前のエネルギーで、生あるかぎり生き抜こうとします。

2)"小説をめぐる小説"としての共通項
 売れない作家ガープは周囲で勃発する様々な出来事(その多くは悲惨な事件)を経験することによって小説家として脱皮し、作家としての転機となる暴力と性を主題としたハードボイルドな作品「ベンセンヘイバーの世界」を完成させることになります。これは「1Q84」における天吾にとっての長編小説と同様の位置づけとなる小説と考えられ、この作品の教養小説としての側面を示しています。

3)1Q84との他の関連要素
@ 物語重視
 物語としての面白さが重要であると考えている点で共通しています。

 まずはプロットさ。単純なことなんだ。それは物語として面白いか? ということだよ。面白い物語を語るというのは小説家のひとつの責任だと僕は思う。我々が常に負わねばならぬ荷物のひとつだね。  (ジョン・アーヴィング インタビューより・村上春樹訳)

 「物語としてはとても面白くできているし、最後までぐいぐいと読者を牽引していく」ことに作家が成功しているとしたら、その作家を怠慢と呼ぶことは誰にもできないのではないか。 (「1Q84」BOOK2 P123)

A 暴力と性
 暴力と性が重要な要素として扱われています。

 暴力と性が、作品を重ねるにつれて僕にとって大事な問題になってきている。この二つは人の魂の奥に迫るための大事な扉と言っていい。 (読売新聞インタビュー)

 僕が作品の中でやることは、僕がそのとき書いているシーンの、いわばエッセンスを強調すること。もしもそのシーンが暴力的なシーンなら、暴力を極端に表したい。もしもそれがセックスなら、セックスを極端に表したい― しかし、このことは、僕にとっては、決してリアリティの誇張ではなくて、あらゆる人間の人生のなかで、最もリアルな瞬間を描くことなんだ。 (「アメリカを語る」/ジョン・アーヴィング)

B 家族小説
 ガープの誕生から成長、ヘレンとの出会いと結婚、子育て、母との別れ、ガープの死までを主軸のストーリーとした本作品は、家庭人ガープの視点から世界を眺望した極め付きの家族小説です。

C オマージュ的エピソード
 以下は設定が似ているというより、敬愛するアーヴィングに対するオマージュではないかと思います。
 @.「1Q84」において、老婦人がDVから逃れた女性たちをかくまっているというシチュエーションは、ガープの母、ジェニーがレイプの犠牲者の女性たちに自宅を開放して保護していることと共通。
 A.天吾はマッチョなタイプとして造形されているがガープも同じです。天吾は柔道部に、ガープはレスリング部に所属していました。

 
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 4. 「Oracle Night(神託の夜:仮題)」(2003)未翻訳作品/ポール・オースター

 僕にとってもポール・オースターは尊敬している作家なわけです。好きだし、だいたい本は全部読んでいるし。(中略)
で、なぜ僕がポール・オースターを訳さないかというと、それは僕がポール・オースターから、文学的・文章的に学ぶところがないからです。と言うとすごくきつくなって、じゃあ、ポール・オースターは意味ないのかよということになるんだけど、そうじゃないんですね。というのはポール・オースターは、すごく立派な仕事をしている作家だと思うんだけれども、彼が進んでいこうとしている方向と、僕が進んでいこうとしている方向は少し違うんです。
  「翻訳夜話」

1)あらすじ
 作家であるシドニーが、大病から回復し退院して間もない20年前(1982年)当時の出来事を振り返り、一人称で語られる物語です。主軸のストーリーは、現実世界でのシドニーの周囲の人間関係を巡って展開されますが、もう一方でシドニーが謎めいた文房具店で手に入れたポルトガル製の青いノートに書き進めていく編集者を主人公とする小説のストーリーも並行して語られ、さらには、この小説の中に未来予知能力を持った盲目の男を主人公とするもう一つの小説「Oracle Night」(女性作家が遺した未発表原稿)も登場し、全体が重層的な小説構造となっています。
 青いノートに向かうと憑かれた様に書き続けるシドニーでしたが、数日後小説の物語は突然デッド・エンドに陥ってしまいます。それとともにシドニーの周囲の状況も破局に向かって進んでいきます。

2)"小説をめぐる小説"としての共通項
 ストーリーが進むに従い、次第にシドニーが青いノートに書いている小説世界が現実と関わりを持ってくるようなミステリアスな展開が予感されることになります。シドニーが青いノートを破棄してしまうのは、彼自身その予感が決定的事実になることを恐れた為でもありました。
 シドニーと友人の著名な小説家ジョンとの会話の中で、シドニーが「想像と現実とは一線を画すもので、それらの間に何のつながりもないよ」と言うと、ジョンは「思考、言葉は現実なんだ、時に我々は物事が起きる前に知ることができる。現在に生きながらも未来は絶えず我々の内部に生起している。作家が書くのは未来に起こることを先取りしているのだ」と彼の考えを語ります。

 ジョンの考えに従えば、天吾がリライトした小説「空気さなぎ」において、彼が付け加えた二つの月や空気さなぎのディテールが現実化していたのは、天吾の予知能力によると考えることができそうです。
 さらに天吾自身の長編小説に書かれるであろう青豆との愛の物語の様相は、天吾によって書かれることによって1Q84世界において現実化されるのではないかとも考えられます。


 天吾がやらなくてはならないのはおそらく、現在という十字路に立って過去を誠実に見つめ、過去を書き換えるように未来を書き込んでいくことだ。それよりほかに道はない。  (中略)
 夕暮れの東の空に月が二個並んで浮かんだ世界の風景を、彼は描いた。そこに生きている人々のことを。そこに流れている時間のことを。
 「世界のどこにあっても、この福音の宣べ伝えらるるところには、この女のなせしことも語られて、彼女の記念とならん」
 (「1Q84」BOOK2 P97・98)

3)1Q84との他の関連要素
@ ハードボイルド的要素
 シドニーが青いノートに書き進めていた小説は、ハードボイルド小説の創始者とも言えるダシール・ハメットの代表作「マルタの鷹」の中のエピソードに触発されたものでした。

A 超自然的要素
 シドニーが青いノートに小説を執筆している間、妻には彼の姿が見えず、またシドニー自身、周囲で起きていることを認識できていませんでした。シドニーはこの時のことを、ノートに書いているというよりノートに書かされている状態だったと述べています。

B 不完全な結末
 シドニーが20年前の出来事を振り返る一人称叙述のストーリーでありながら、その後のシドニーの作家としてのキャリア、妻グレイスとの関係、中断された小説のその後の経緯についてなどについて全く触れられていないため、オースターに馴染みのない読者は宙ぶらりんの状態に置かれ欲求不満に陥りそうです。

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 5. 「死の島」(1971)/福永武彦

 福永武彦(1918−1979)はその小説作品の中で一貫して生と死、愛と孤独を中心テーマとして描いた作家で、村上さん同様、日本の伝統的私小説から距離を置き、西欧文学(福永の場合にはとくに仏文学)を範として創作活動を行った作家です。福永武彦は「夏の朝の成層圏」、「スティル・ライフ」などの著者である池澤夏樹の父でもあります。
 現在書店で入手できる福永作品は「草の花」と「忘却の河」(いずれも新潮文庫)の長編2作です。
「死の島」は福永文学の総決算として位置づけられる最も重要な作品であり、上・下巻合わせて約900ページの大作で、日本文学大賞を受賞しています。

1)あらすじ
 昭和28年(1953)〜29年(1954)が小説の時代設定。出版社に勤務する20代後半の作家志望の編集者、相馬鼎(かなえ)は展覧会場で見て衝撃を受けた絵の作者、萌木素子を訪ね、彼女と一緒に暮らす相見綾子の二人を知るようになります。素子は広島の被爆者で、背中のケロイドだけでなく内面にも深い闇を抱えた意志の強い女性であり、一方の綾子は穏やかな優しい性格ですが家庭環境には恵まれず孤独感を抱いていました。対照的な性格の二人の女性を愛していた相馬は、冬の朝、二人が広島で心中を図ったという報せを受け、夜行列車で広島に向かいます。

2)"小説をめぐる小説"としての共通項
@ 教養小説的側面
 「死の島」は相馬が愛した二人の女性との邂逅と別れ(死)を経て彼にとっての小説の本質を発見するに至ることを重要テーマとした小説であり、相馬を焦点とした教養小説の側面があります。これは「1Q84」における天吾の教養小説的要素と通じ合う事項です。天吾、相馬ともに作家志望であり、まだ自作の小説が公けになったことがないという点でも共通しています。

 死が照らし出してこそ、己(おれ)たちは生の実体を知ることが出来るのだろう。窓の外にある空が虚無にすぎなくても、その虚無に照された自分の心が他人の虚無を思い出し映し出すことの出来る鏡であるならば、初めて己たちは虚無と虚無とをつなぐ関係を、結びつきを、連帯を、そして愛を、持つことが出来るだろう。
 それが小説を書くという行為ではないだろうか。小説もまた、あたかも我々の見た夢の破片を我々が思い出すことによって夢が成立するように、現実のさまざまの破片を思い出すことによって成立するのだ。
 (相馬の独白)「死の島(上)」新潮文庫P38

A メタフィクション構造
 現実のストーリーの進行と共に、相馬が構想している複数の小説の断片が挿入されていきます。これらの小説では素子と綾子をモデルに、彼女たちの過去が描かれていますが、彼のイマジネーションによる創作であり事実ではありません。
 注目すべきは小説「死の島」の全体構成が相馬が最終的に見出した小説の構想を具現化したものとなっているというメタ構造になっている点です。ここから「死の島」という小説全体が相馬によって書かれた作品として設定され得るという「1Q84」同様の踏み込んだ解釈が可能だと考えられます。

3)1Q84との他の関連要素
@ 音楽を小説構造の核とする小説
 「1Q84」の全体構成が平均律クラヴィーア曲集に倣(なら)っているように、「死の島」ではフィンランドの作曲家シベリウスの「レミンカイネン組曲」が小説の構造と本質的な係わりを持っています。相馬は組曲の中の1曲「レミンカイネンの帰郷」の曲構造に倣って、"多くのばらばらの断片の一つ一つの中に現実があり、それらの断片が重なり合って組み立てられたものが、別個の、架空の、総合的な現実世界を表現するような"小説を構想します。そしてそれが実現しているのが小説「死の島」であり、小説全体が時間的にもばらばらの(作者が意識的に配列し直した)99の断片から構成されています。
 また、4曲で構成されたこの組曲には上述の曲の他に有名な「トゥネラの白鳥」があり、「死の島」にはこの曲名を冠した相馬の小説が挿入されています。
 シベリウスには、ヤナーチェックのシンフォニエッタに相当する祝祭的な管弦楽曲「フィンランディア」がありますが、「死の島」の基調は「トゥネラの白鳥」や後期交響曲(とくに7番)から想起される暗く深い北欧の自然のイメージです。

 なお、福永の長編小説「海市」は、著者の言によると、
 「バッハの『平均律クラヴィア曲集』に倣(なら)い、男と女の愛の『平均律』を『前奏曲』と『フーガ』とを交錯させる形式によって描き出そうと考えた。」
とあり、「1Q84」以前にも平均律クラヴィア曲集に倣(なら)って書かれた福永の小説があったわけです。

A 読者の物語への参加を促す小説
 「1Q84」同様、読者の想像力の関与が物語の成就に重要な要素となっています。

 僕の考えによると、これからの小説では読者が小説の世界の中に本気で参加するようにしむけること、つまり読者の想像力が作者によって刺激され、彼等自身の力で、というより作者と読者との共同作業で、小説が読まれるようにすること、それが作者の任務だと思うんです。その時初めて、読者の精神を作り変えるという仕事が作者にとって可能になる。 (相馬の言葉)「死の島(上)」P38

 「死の島」では、作者によって三つの結末が提示されるという通常の小説では考えられない構成となっています。三つの結末とは、心中を図った二人の女性について、@萌木素子が死に相見綾子が生き残る A相見綾子が死に萌木素子が生き残る B二人とも死ぬ であり、それぞれのエピソードが等価に提示され、いずれを選択するかは全く読者の手にゆだねられています。

B 暗黒意識をめぐる物語
 暗黒(闇)意識は福永作品における重要なテーマのひとつで、「死の島」では萌木素子が内に抱えている「それ」が相当すると考えられます。「それ」とは広島での被爆を契機として彼女の内部に生起し精神の崩壊へと導く死の意識と読み取れます。

 村上作品において提示される暗黒意識(闇)は福永作品におけるそれと等価ではないにせよ、作品を読み解く上で極めて重要な要素であることに違いはありません。
 「1Q84」ではカルト教団「さきがけ」を操り、"着実に我々の足元を掘り崩していく存在"であるリトルピープルが暗黒意識(闇)を象徴するものであると考えられます。


C 小説内の時間の経過
 小説内の実時間の経過はそれぞれ以下のようになっていて、いずれの作品でもクライマックスの主人公の女性の死(あるいは生の可能性)へ向かって物語が収斂していきます。
 「死の島」では1953年3月29日〜1954年1月24日の300日間(約10ヶ月)、時間の経過は「300日前」から「1日前」に至る66の断片と、当日の「朝」から「深夜」に至る33の断片により構成
 「1Q84」では1984年4月〜9月(6ヶ月)、全体は48の章により構成

D 主人公の女性(萌木素子と青豆)
@.人物造形
 萌木素子は相馬が愛した女性画家で、「死の島」の真の主人公であるともいえます。彼女は広島で被爆し両親と妹を失い彼女だけが生き残りました。青豆と同じく彼女も最後に自らの意志で死を選び取りますが、周囲と安易に妥協しない確固たる自意識と強い意志を持った人間像において青豆と共通しています。

 もう27、8にもなっていようか、細面の痩せた顔立ちで、眼ばかり異様に大きく、(中略) その声は少し嗄(しわが)れ気味で、しかも低かった。 「死の島(上)」P87

 もしわたしが生きることを選ぶのなら、わたしは犠牲となって生きるのは厭(いや)だ。わたしは悦びを、快感を、恍惚を、人から与えられて生きるのは厭だ。与えるのはわたしだ。わたしは人から着物を脱がされるのは厭だ。裸になるのはわたしだ。(中略)奪われるのは厭だ。奪うのはわたしだ。愛されるのは厭だ。愛するのはわたしだ。 (萌木素子の独白)「死の島(上)」P48

 唇はまっすぐ一文字に閉じられ、何によらず簡単には馴染まない性格を示唆している。細い小さな鼻と、いくぶん突き出した頬骨と、広い額と長い直線的な眉も、その傾向にそれぞれ1票を投じている。しかしおおむね整った卵形の顔立ちである。好みはあるにせよ、いちおう美人といってかまわないだろう。問題は、顔の表情が極端に乏しいところにあった。堅く閉じられた唇は、よほどの必要がなければ微笑みひとつ浮かべなかった。その両目は優秀な甲板監視員のように、怠りなく冷ややかだった。 「1Q84」BOOK1 P25

A.萌木素子と青豆の生と死
 「1Q84」の物語が終わった時点で、青豆の死は確定されているわけではありません(状況から判断してその可能性は高いとしても)。かといって生が暗示されているわけではなく、どちらを選ぶかは最終的に読者の想像力にゆだねられていると言えます。一方「死の島」の場合には、作者によって素子の生と死、両方の結末が提示されていて、どちらを選択するかは読者の自由です。

B.二人の女性の関係
 萌木素子と共に相馬が愛したもう一人の女性、相見綾子は萌木素子とアパートで共同生活を送っています。二人の性格は対照的ですが、精神面において互いに依存しています。こうした二人の女性の関係は「1Q84」における青豆と大塚環のそれに近似しているといえます。

E 小説の主題について
 まず、愛と死という人間の本質的なテーマを描いてきた二人の作家の過去の作品群を包含する集大成的な作品であることに共通点があると思います。
また、どちらの作品においてもシステム悪をテーマにしていますが(カルト宗教と原爆)、いわゆるメッセージ小説とは一線を画し、あくまで象徴として扱っている点において共通しています。
 相違点として、福永作品が愛の不可能性を描いているのに対し、「1Q84」では愛による精神(魂)の救済の可能性を提示しているように思われます。
しかしながら福永作品においても、人間の本質的な孤独を救う唯一の道は愛の可能性に賭けることだ(たとえそれがかなわないとしても)というメッセージを受け取ることは可能だと思います。

 人は孤独のうちに生まれて来る。恐らくは孤独のうちに死ぬだろう。僕等が意識していると否とにかかわらず、人間は常に孤独である。それは人間の弱さでも何でもない、言わば生きることの本質的な地盤である。

 人は愛があってもなお孤独であるし、愛がある故に一層孤独なこともある。しかし最も恐るべきなのは、愛のない孤独であり、それは一つの沙漠というにすぎぬ。
  「愛の試み」/福永武彦

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